経済小説『落日』(57)衝撃4
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谺 丈二 著
「なんてことですか、どうすればいいんですか。組合員にとって執行部は清廉、誠実が基本でしょう」
大川の報告を受けて矢島浩は狼狽した。
「その通りです。これが表に出たら、組合全体の問題です。たとえその人間が1人だったとしても組合幹部は全員当事者です。もちろん、あなたも私も」
大川は力なく言った。
「住宅ローンじゃあるまいし、よりによって西総銀から個人で異常な額の融資を受けるなんて。疑惑をもたれるに決まっているでしょう。どうしたらいいんですか」
矢島は椅子から立ち上がり、苛立ちをそのままに大川をにらみつけるようにして言った。その体は小刻みに震えている。
「話の出もとはおそらく西総銀ではないでしょう。しかもその話には裏があるはず」
「裏?」
「ええ、西総銀の融資部門が単独で当社の組合幹部個人に大きな融資をするのは、どう考えてもおかしいでしょう」
「井坂社長や犬飼常務が絡んでいると…」
「そう考えるのが自然でしょう」
「では、仕掛けて仕組んだ内部告発ですか」
「それは何ともいえませんが、どっちにしてもそんなことはいまさらどうでもいいことです。背景や出もとを詮索しても何の解決にもなりませんからね。とにかく、これが表ざたになったらすべて終わりですよ。道義が絡む疑惑には、時効も情状酌量もありません」大川は怒りと不快を口元に漂わせながら続けた。
「問題は今後どう会社、いや井坂社長と交渉するかです」
「交渉? 疑惑を積極的に解明しないということですか」
「いや、そういうわけじゃないですが」会館の件を会社と交渉するということはいうまでもなく、疑惑を半ば隠ぺいするということでもある。大川はかすかな後ろめたさのなかで返事に窮して少し口ごもった。
「じゃあ、どうするんですか」
矢島は困ったときの子どものように口をとがらせた。
「あとは私が何とかします。会長は何があっても毅然としていてください。ただ、この件は絶対に公言しないでください。島田君と会長、それに私だけのうちにとどめます」
「わかりました。お願いします」矢島は蚊の鳴くような声で言った。
組合きっての論客といわれてはいたが、矢島の朱雀屋労組での活動期間はごく短く、その大部分は外部でのものだった。そんな矢島が労連の会長になったのは井坂が朱雀屋にきたことがきっかけだった。
朱雀屋の労組は経営側にとっては結構骨のある相手だった。社内では絶対的な権力を誇った朱雀でさえ、組合には手を焼いた。過激な運動こそしないものの、要求にはとことんこだわり、なまじっかなところでは妥協しない。しかし、朱雀屋のすべてを支配しようとした新しい経営者は、労働組合とて例外にしなかった。
井坂が考えた最大の懐柔策は組合の最高幹部を取締役に登用するというものだった。
経営不振で会社が消滅するか総務・人事の担当役員を組合OBの指定席にするか、社長に就任すると、井坂は非公式に、朱雀屋労働組合委員長と労働組合連合会の会長を兼務していた原田良隆に迫った。
原田に異論があるはずがなかった。
井坂が社長に就任した株主総会で、原田は取締役に就任した。原田は組合を去るにあたり、その影響力を残そうと画策した。その結果、連合会長に就任したのが、かつて原田の子飼いだった矢島だった。
いくら取締役に昇進したといっても、役員人事は社長の胸三寸でどうにでもなる。井坂へのけん制の意味でも原田は、組合への影響を保持したままでいたかった。それにはまず、連合会長と本体の委員長を兼任するかたちを壊さなければならない。この2つを兼任するということは、朱雀屋労組内で絶大な権力を手にするということである。原田は自分の後継として朱雀屋を離れ、上部組織で活動していた矢島を呼び戻して労連会長にした。本体の委員長には書記長の大川が就いた。
朱雀屋労働組合連合会の会長といっても、各単組にはそれぞれ委員長がいて実務を取り仕切る。本体の委員長を兼ねない限り、会長は単なる名誉職に過ぎない。いざという時の調整役ではあるが、グループ企業の連合会に調整の仕事などほとんどない。そんな矢島には当然のことながら、経験的にも性格的にも修羅場に臨む気構えなどなかった。
(つづく)
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