経済小説『落日』(66)デジャビュ3
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谺 丈二 著
無言で石井を見つめる高杉に石井は続けた。
「確かに井坂さんは就任当時無為の責、つまり何にもしないことへの責を厳しく追及すると言った」
「向こう傷は問わないというやつですね」
「でもそれは難しい。向こう傷だろうが背中の傷だろうが傷は傷だ。はっきり見えるし、見方次第でどちらにも見える」
「傷はないほうが良いということですか?」
「そりゃそうだろう。見えないものをジャッジするのは難しい。部下はすぐそれに気が付く。当然、傷を受けないようにするか見られても言い訳の通る傷つき方を考えるさ」
「そういえばあるQC(品質管理:Quality Control)のコンサルタントが言っていましたね。朱雀屋社員は上の指示に対して、何かをやる振りをして実際は何もしないフリフリ族集団だと」
「幹部がリスクを取らないとなると部下もそうせざるを得ないからね」
「結局、石井さんとすればどうすればよかったと?」
「軽々にはいえないね。でも、井坂さんは金融マンの域から文字通り蛻変できなかったということかな」
「座右の銘を実行できなかった?」
「普通の金融マンは育ってきた環境上、慎重で保守的だからね。物事を決めるのに必要以上に時間をかけるし、疑い深い」
「そりゃそうでしょう、性善説でカネは貸せませんから」
「加えて、付き合う業種の幅が広く、手にする情報も多岐にわたるから自分たちはあらゆる業種に詳しいと錯覚する」
「本当の当事者になれないってことですか」
「脱皮は経験の蓄積をすべて捨てることからしか始まらないよね。でも、なかなかそれはできない。とくに自尊心の強い金融マンはね」
「なるほど」「本来、ジャッジに慎重な人種が慣れない業界で結果を急ぐとどうなるかな?」
「命令者は根拠のない自信過剰、下は自信喪失、ブレーキとアクセルを一緒に踏むことになる?」
「その通り。高度な能力を持つ組織は例外だろうが、普通の組織は悲鳴を上げる」「石井さんから見れば朱雀さんと井坂さんの手法は大差なかった?」
「うん、お2人とも情と思い込みの経営者だからね。本当の意味での現状否定ができない。本当の現状否定というのは時によっては部下の人格と努力の全面否定でもあるからね。それを平気で実行できる経営者は少ないよ」
「お2人は基本的には優しいからね。情と「ガンバリズム」で相手と自分を納得させようとする。でも、この2つで部下を見るとそのときの気分で評価もぶれる」
「そうですね。2つには基準がないですからね」「その都度、経営者の視点や評価が変われば部下は常にその顔色を見るようになる」
「そうなると経営は不条理の連続になり組織から公平さと冷静な判断力が消える。いわゆる漂流ってやつですか」
高杉が苦く笑い、つぶやくように言った。
「感情の経営では自由な議論が生まれる環境づくりは難しい。結果として属人、英雄主義に短絡するね」「属人主義か。いわゆるゲリラ経営というやつですね」
「そういうことだね。ゲリラ戦は一見するとチーム一丸、低コストで相手に大きなダメージを与えるという印象だが、実際には小さな戦果のために莫大な人的消耗がともなう」
「ベトナム戦争ですね。海兵隊中心に5万8,000人余りのアメリカ軍の戦死者に対して、北ベトナムのそれは100万とも200万ともいわれていますからね」
「視点を変えれば経営も同じだね。感情と過去の経験で事を運ぶと計算外の取り返しのつかないことが次々に起きる」昔から石井は反骨で通っていた。朱雀時代にもその歯に衣を着せない言動で結構痛い目に遭っていたが、それは井坂に権力が移っても少しも変わらなかった。
(つづく)
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