経済小説『落日』(67)デジャビュ4
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谺 丈二 著
すでに会議室には誰もいなかった。がらんとしたなかに、主人を失ったテーブル付の椅子だけが整然と並んでいる。
「ところで、きょうの映画は何だったんでしょう?」
高杉はよほど映画のことが気になったのか、最初の話題を蒸し返した。
「気が付いたかどうか知らんが、アルバトロスが沈没する直前、船長は操舵手の少年に風下に舵を切れといった。しかし、少年はなぜか風上に舵を切った。結果的に船は沈んだ」
「どういうことですか?」
「指示した船長が井坂さんで、指示通りに動かなかった少年が朱雀屋の社員ということじゃないの」
「はあ?」高杉が目を丸くした。
「そんな。誰もそんなこと気が付かんでしょう」
「そうかもしれんな。でも井坂さんの意図はそこだろう」
「俺は悪くなかった。会社がおかしくなったのはお前たちのせいだってことですか?」
「そうじゃないのかな。井坂さんのものの見方の座標軸は独特だからね。朱雀屋はまさにアルバトロスだ」
「ということは打つ手はもうないというメッセージも兼ねてってことですか?」
「そうかもね」石井は高杉を見て短くいうとコーヒーカップを口に運んだ。
「我が社にも西総銀から借り入れている10億を返済すれば、朱雀屋がもっている51%の株のうちの5%を譲るといってきている」
「いいじゃないですか。株式の過半を握れば、石井さんなりに何とかできるでしょう」「おそらくそれは口約束だけで実行はしない。朱雀屋の近い将来を決めてのことだろう。子会社の売却交渉の際、49%と51%では買い手にとって、まったく価値が違うからね。当然、商法上の詐害行為だが、銀行は日付や名目の改ざんで抜け目なく処理するだろう」
「返済するんですか?」
「相手が条件を出している以上、対応しなきゃならんだろうね。当社だって西総銀の孫会社だからね」
「協調融資の同業を出し抜くなりふり構わない債権回収ですね。西総銀に残されたのは損切りをいかに圧縮するかということだけか。まさに絶望的希望の世界ですね」
高杉がため息まじりに言った。「それはそうと石井さん、今度F空港そばに大型店を建設するという話が出ていることを知っていますか?」
「空港そば?いや、聞いてないな」
「独法のもっている土地を賃借して大型店を建てるって話ですよ」
「大型店?」
「はい、H店の代わりということで」H店はF市の中心部にあるかつて石井も店長をしていたことがある朱雀屋の旗艦店で賃借期限がきて立ち退きを迫られている店だった。
かつてマリリン・モンローとジョー・ディマジオが新婚旅行で滞在したこともあるというTホテルを百貨店に改装した店舗だったが、施設の老朽化で現状のままでの契約の継続は不可能と、所有する保険会社から通告されている物件だった。
それに代わる新物件が高杉のいう空港そばの土地だった。もちろん、近隣に住宅がなくはないが、それでも大型店が成功するには圧倒的に商圏が薄い。
「それはまずいな、足もとに住宅がほとんどない地域だ。商圏から考えてあり得ないだろう。しかも独法の土地ならテナントなどへの転貸もむずかしい。直接収益も間接収益も厳しいとなると、わざわざ赤字の大型店をつくるも同然じゃないか。代替えが代替えにならないよ」
「ええ、営業の連中はみんなそう言っていますが、でも、銀行からの話ということですからね。おいそれと断れないんじゃないですか」
「それはないだろう」
「誰もそう思いますよね。でも、十中八九、計画は進みますよ」あきれ顔の石井を見ながら高杉は続けた。
「もっとも社長はあまり乗り気じゃないらしいのですが、それでも西総銀からの話となると受けざるを得ないんじゃないですか。当然、建設資金の融資付でしょうからね。回収の見込みもないのに、銀行もよくやりますよ」
高杉が皮肉な笑いを浮かべた
「旧空港公団がらみの土地か。そういえば加藤会長は銀行に来る前はナショナルフラッグキャリアのボードだったな」
「なるほど、その辺りも絡んだ話ですか」
「企業というのは、流れのなかで何でもありだからね。とくに銀行はその典型だろう。役所と組めば多少荒っぽくやっても何とかなるからね」石井と高杉は顔を見合わせて苦笑した。
「じゃあ、商談があるので失礼します」
歩き去る高杉の背中を見送りながら石井はゆっくり立ち上がると冷たくなったコーヒーの残りを一気に流し込んだ。
石井一博は井坂の就任後の初めての幹部会議を思い出していた。その冒頭、井坂は朱雀に対し非常にわがままな経営をやってきたという皮肉じみた言い方で、初の訓話に臨んだ。小柄な体を猫背にして、壇上から社員を覗き込むようにして、わがままという言葉を繰り返し、朱雀の経営姿勢を批判した。口を極めるというのではなかったが、公の場で、しかもはっきりと朱雀を名指しで批判する井坂に会場には小さくない衝撃が走った。
銀行出身以外の役員は、申し合わせたように机に目を伏せていた。社員は鼓動を高めて、横目で朱雀と井坂を交互に視界に入れた。しかし、いささか閉塞気味の朱雀屋に漠然とした不安を感じていた社員のなかには、この変化に希望をもった者も少なくなかった。
程度の差こそあれ、朱雀のわがままは、ある面で事実だった。自分が決めたことは、どんなことでも一途に押し通した。そして、その失敗が明らかになるまで、かたくなにその実行を社員に強いた。そんな理不尽な環境が変わるかもしれない。
あのとき、あいさつの結びで、井坂は社員に朱雀屋をエクセレントカンパニーにすると宣言した。
(つづく)
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