経済小説『落日』(終話)船のカニ3
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谺 丈二 著
ちょうどそのころ、井坂は社長室の一番奥にあるショッピングセンターの完成模型の前に立っていた。敷地面積20万m2、総工費200億円という朱雀屋の歴史で最大規模の施設だった。ショッピングゾーンのほかに本部や社員研修所なども併設する予定になっている。
社長就任直後、開発担当専務の牧下ほか数人の社員で現場を訪れた井坂は、敷地を見下ろす小高い堤防からショッピングセンター予定地を眺めた。予定地はK市郊外の広大な田園の一角だった。市の中心からも近く、数キロのところに九州自動車道のインターチェンジもある。立地の良し悪しはわからなかったが、その光景は井坂に大きな希望の旅立ちを連想させた。
「社長の誕生日に合わせてこのSCを華々しくオープンさせましょう」
そのとき、牧下が満面の笑みでそう言ったのを、井坂は昨日のことのように覚えている。井坂は栄光へのスタートとして、なるべく早い時期に社長として、そのオープンテープにハサミを入れたかった。しかし、いまとなってはそれも荒唐無稽な夢に過ぎなかった。200億円という資金調達は今の朱雀屋にとって、まさに不可能を絵に描いたようなものだ。
井坂の胃の奥の鉛のカニはさらに重く大きくなっていた。
加えて、井坂にはもう1つの気がかりがあった。決算のメドがまったく立たない、という太田の報告だった。
2年連続、しかも、今度は大幅な赤字ということになると問題は小さくなかった。つもり積もった粉飾利益は150億。この10年でつくろってつくった平均経常利益の20年分。まさに回復不可能な数値だった。
ここ数年、株価の下落に歯止めをかけるため、社員にも、社員持ち株会を通じて自社株を買ってもらっている。その数は300万株。その株価もすでに200円を切ろうとしていた。このまま赤字決算になれば200円どころか額面の50円も危うい。もちろんそうなれば、社員だけでなく、すべての投資家に大きな損害を与えることになる。さらに、それは当座の運転資金にも窮することを意味した。
「社長、加藤会長からメッセージが入っています」
いつの間にか犬飼が井坂の目の前にいた。 ノックに気が付かなかった井坂は少し驚いたような顔で犬飼を見た。能面のように無表情で犬飼が一枚のメモを差し出している。
「まあ、座らんか」
メモを受け取ることもなく井坂が犬飼をソファーに促した。
「いよいよ終わりそうだな」
「はあ」犬飼が拳にした両手を膝のあたりに置きながらうつむき加減に答えた。
「どこでボタンを掛け違えたのかな」
井坂のひとり言のような問いに犬飼は応えなかった。
「そういえば以前、石井に言われたことがあったな」
井坂はそれに構わず言葉を続けた。
「やる気がなくて能力のある人間を探せとな」
犬飼が怪訝そうな顔をして井坂を見た。
「次にやる気も能力もない人間」
「モルトケですか」
「ん?」
「ビスマルクの総参謀長だったモルトケの言行録にたしかそういうのがありました。確か3番目がやる気も能力もある人間、最も要職に就けてはならないのは能力がなくてやる気がある人間だったと思いますが」
「そうか、それはともかくとして、君にはやる気も能力もあった」
「モルトケ流にいえばさしずめC級の人間ということですか…」犬飼が力のない笑いを浮かべた。
「そのものさしからすればわしらが集めたのは4番目が多かったのかな」
「社長はどうだったのですかね」犬飼の目に醒めた光が宿った。
「多分、牧下レベルのランクだろう。やる気だけぎらついていたのかもしれん」
「しかし、やる気がなくて能力があるなんて人間は実際にはいないでしょう。もしいたとしても現在の組織ルールのなかではボードまで登ってくることはまず、ありませんよ」
「だからこそ探さなきゃならんのかもしれん」
「しかし、実業の世界は格言の世界とは違いますからね」
「そうだな、口では不可能に挑戦と簡単にいうが、現実にはそれをやればただのバカといわれるのが関の山だ」「でも当社の場合は一か八かそれに挑戦すべきだったのですかね」
「結論からいえばその通りかもな」
「今さらそれを言っても始まりませんね」
「ところでこれからどうする?」
「社長の後任に永木さんの名前が挙がっているそうです。もしそうでしたらとてもじゃないですが」井坂の問いに、犬飼は力ない笑みを浮かべてゆっくり立ち上がり一礼するとドアに向かった。
「井坂社長、当社全員の意識を変えるために思い切って赤字決算をなさったら如何ですか? 不良在庫や固定資産の評価損を一気に処理するんです。それがベストの選択です」
井坂は社長就任後の最初の決算前に、石井から言われたことを思い出していた。そのくらいしなければ役員、社員は真の意味で危機感をもたないというのが石井の意見だった。
社長就任当初、井坂も赤字決算を検討しないでもなかった。しかし、就任した途端の赤字では自分のメンツが潰れるどころか、出身銀行の評判さえ落としかねない。赤字自体も数億円という企業規模から見たらわずかな額だった。井坂は財務的手段を使って、とりあえず黒字で取り繕い、次年度でその分をカバーするという楽観的な手段を選んだ。しかし、それは大きなミスジャッジだった。思ったように売上は増えず赤字は消えるどころか決算ごとに雪だるま式に膨らみ続けた。
何もかもが止まったような静けさのなかで井坂は犬飼がデスクに残したメモに目を落とした。
『加藤会長からのご伝言です。あす午後6時から7時の時間帯で西総銀本店にお出でくださいとのことです』メモにはボールペン書きで短くそう記してあった。1時間の範囲指定ということは言葉を変えれば6時に出向いても一時間待たせることもあるという通告でもある。メモを見ながら井坂の頭のなかで自然に開き直りの言葉が渦巻いた。
「加藤さん、役所と違って民間会社は時にはいささか法を犯しても食わなきゃならんのだ。会社が法律を守っても、法律は会社を守っちゃくれん。どんな手を使っても、誰からどういわれようと経営者は会社を守らにゃならんのだ。どうにもならなくなった会社に残された道はなりふり構わぬ生き残り策だ。人間は欲をもち、そして群れるのが本能だ。欲が群れれば必ずそれなりの悪が生まれる。加藤さんよ。きれいごとだけじゃ、群れはうまくまとまらん。組織の悪はいわば必要悪だ。それが表に出て叩かれるか逆に悪という毒でピンチを乗り切って喝采を受けるかは時の運だ。もちろん、あんたは違うというのだろうがね。俺としてはやるだけやった。あんたにも銀行にも朱雀屋の泥が飛んでは来るだろうが、それは飛沫程度だろう。どう考えても頭からかぶる泥じゃない。無形の盾のなかにいるあんたらは、いつも安全圏だ」
いつの間にか窓の外には漆黒の闇が横たわっていた。もちろん、数日後の新聞の一面トップに『朱雀屋に粉飾の疑惑』という見出しが躍ることを井坂が知る由もなかった。
(完)
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