【加藤縄文道10】神武東征・船出の地を訪ねて(後)
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縄文アイヌ研究会主宰 澤田健一
しかし、神武天皇の時代になるとほとんどの親族は日本列島の中にいて、そのため日本列島の中心に拠点を移そうと考えられたのであろう。ここから拠点探しがはじまった。多くの神々と相談したところ、塩椎神(しおつちのかみ)の提案により大和の地を目指すことになった。そこで船出の準備をするために美々津の港に降りてこられたのである。
美々津の立磐神社には神武天皇の御腰掛岩(おこしかけいわ)があり、ここに座られて軍議を開かれたのだと伝わる。ここで軍船を準備し、舟師(ふなし)や戦人(いくさびと)をそろえて東征の準備をされたことから、この地は「日本海軍発祥之地」とされている。準備が整い、船出を旧暦8月2日にすることになった。
ところが遠見の山で凧をあげて風向きを調べ、港からは小舟を出して潮の流れを調べたところ、予定前日の8月1日に風も潮も絶好の好機となった。そこで急遽1日の午前2時になって、舟を出すことを決められた。
そこから村の人々を起こして回る。「今から舟をだすぞー、みんな起きよ、起きよ、美々津の者どもみんな起きよ起きよ!」と言って家々を回り人々を起こした。驚いて飛び起きた村人たちは困惑した。2日の船出に合わせて団子を差し上げる準備をしていたのだが、団子を作っている時間はない。そこで準備をしていた米粉と小豆を混ぜ合わせて蒸し、臼でついて団子らしいものにして差し上げた。それを神武天皇はたいへん喜ばれたのだという。
美々津ではこの風変わりな「お船出だんご」を「つきいれ」と呼び、今でも実在する独特な団子となっている。ところが、美々津の人が全員作れるわけではないのだという。船出が突然開始されることになったため、それに気づかずに寝ていた人がいたそうだ。それでその家の人びとは「つきいれ」を作ることをいまだに禁じられているのだ。
さらにこの逸話にまつわる行事が今に伝わっている。旧暦の8月1日には「おきよ祭り」が今でも行なわれており、明け方に短冊飾りを付けた笹の枝を持った子供たちが町の家々の戸を「起きよ、起きよ」と叩いて人々を起こして回るそうだ。
また、神武天皇が御腰掛岩の近くに立って下知をされていると、着ておられる服にほころびがあった。そこで急いでいたために、立ったまま童女に繕わせた。それで美々津のことを別名「立縫(たちぬい)の里」と言う。
美々津とはたが言ひそめし旅衣 君きて縫ふや立縫の里(美々津の古歌)
こうして神武天皇は、お舟出を祝う旗と里人たちに見送られて、七ツ礁(ばえ)と一つ上(かみ)の間(お船出の瀬戸)をお船出したのだと伝わる。
このように美々津には具体的な逸話が数多く残されていて、その伝承を美々津の人びとは大切に守っているのだ。嘘や作り話が2,000年以上も残るはずがない。日本民族はこのような事実を神話として伝え継いできたのであり、これからも大切に守っていかなければならないと改めて心に刻んだ旅となった。
福岡から来てご案内いただいた(株)データ・マックスの児玉直会長に感謝申し上げたい。
(了)
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