2024年11月22日( 金 )

【加藤縄文道10】神武東征・船出の地を訪ねて(前)

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縄文アイヌ研究会主宰 澤田健一

 5月30日、神武天皇が東征に向けて船出された美々津の里を訪ねてきた。道中では西都原(さいとばる)古墳群も訪れた。かなり多くの古墳群があるばかりでなく、展示館には旧石器時代から古墳時代までの連続した展示がされており、非常に見応えがあった。展示方法も手が込んでおり大変参考になったが、そこに言及すると話が長くなり過ぎるため美々津の話に入ることとする。

 今から2,683年前、高千穂におられた神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、のちの神武天皇は奈良の橿原に向けて旅立たれた。それまでは南部九州が日本の中心であったのだ。先にその解説を少しだけする。

 日本民族は列島に上陸する前、カリマンタンなどの南方の島々にいた。そこから丸木舟に乗って日本列島まで到達したのである。それを成し遂げるためには、途中の海域に流れる世界有数の強い海流を突破しなければならない。この困難な外洋航海は丸木舟でなければ達成できない。筏や草舟では海流を横切ることはできず、太平洋のど真ん中に押し流されて死を待つしかない。その丸木舟は岩のように重く、空を飛ぶがごとくの高速が出せる。そうした理由からその丸木舟は「天磐船(あまのいわふね)」と呼ばれた。日本神話は物語として事実を伝えているのである。

 その日本初上陸の地は、薩摩半島の西南端にある黒瀬海岸(南さつま市笠沙町)であり、そこは神渡海岸とも呼ばれている。この地に神が渡って来たと言い伝えられているのだ。それは後期旧石器時代である3万8,000年前の出来事である。しばらくはテント状の簡易な“イエ”に住んで、日本列島を遊動して歩く生活をしていたと考えられている。そのテントの址が見つかっているのだが、南部九州では早くから定住がはじまっていたとされる。なぜなら4Kgもある石皿が発見されており、そんな重い皿を持ち運んでいたとは考えられないからである。

 つまり南部九州が拠点であったのだ。それは日本民族の故地である南方の島々に一番近いからであろう。丸木舟に乗って日本列島にまでやって来られるのは、強い海流を突破するスピードを出せる力持ちだけである。核DNAの分析によると、日本民族の最初の集団はおよそ1,000人程度だったとされており、特別に力の強い1,000人だけが海流を突破することができたのだ。  

黒瀬海岸の石碑(下にお酒が供えられている)

 そうなると親兄弟や親族たちの多くは南方の島々に残るしかない。それで日本列島の西南端を拠点としていたのであろう。『魏志倭人伝』でも、九州の人々が片道1年がかりで南方の島々と行き来していたことが記されている。余談になるが、その南方の島の1つに侏儒国というのが記載されている。侏儒とは小さな人のことであり、その人々は大人になっても身長が3~4尺(約1m)しかないという説明がされている。

 そして南方の島々の中にはフローレス島という島があり、そこに住んでいたフローレス原人は実際に大人の身長が1mほどしかなかったのである。フローレス原人はホモ・サピエンスとの接触により絶滅したとされるが、かなり最近まで生存していたようで、縄文時代の直前まで生きていたようだ。そうなると日本民族が南方にいたころにフローレス原人と出会っていたことになり、それが九州の侏儒国伝承となり、アイヌのコロポックル伝説となっているのだろう。日本神話は真実を物語として伝えているのだ。

(つづく)

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