2024年07月28日( 日 )

【加藤縄文道17】長距離外洋航海の証拠~アマゾンから縄文土器が出土する

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縄文アイヌ研究会主宰
澤田健一

 後期旧石器時代の日本民族は長距離の外洋航海が本当にできていたのか?これの証明ができなければこの後の話はすべて空理空論になってしまいます…。それを証明する指摘を挙げてみます。

・藤尾慎一郎・松木武彦編 『ここが変わる! 日本の考古学』(吉川弘文館)
 20頁「古琉球島の旧石器人」

<この地域の島々では石灰岩質の地層に守られていることもあって、2万年前を遡る人骨がいくつか発見されている。その中で最も古いのが、那覇市山下町にある山下町第1洞穴から出土した6歳くらいの子供の大腿骨と脛骨片である。周辺から出土した炭化物の炭素14年代測定の結果、約3万7000年前という結果が出ていて、形態的にホモ・サピエンスと判断されている>

・海部陽介『サピエンス日本上陸』(講談社)
 54頁11行目から

<石垣島の空港敷地内にある白保竿根田原洞穴からは、旧石器人骨の化石が大量に発掘された。(中略)、2016年までの調査で、2万7500~1万年前の年代を示す人骨は19体>

・小野林太郎『海の人類史―東南アジア・オセアニア海域の考古学―』(雄山閣)
 12頁14行目から

<海面が今より約130メートルも低かった約2万年前でも、石垣島と台湾や中国大陸沿岸の距離は100キロ以上におよぶ。琉球列島ではこのほかにも、宮古島や沖縄本島で3~2万年代の化石人骨が多数発見されており、彼らがどちらの方角から移動してきたかは確定できていないが、いずれも海を越えて各島に到達したことは間違いない>

 後期旧石器時代の日本民族が外洋航海を行っていたことは事実なのです。

イメージ    3万8,000年前以降になると日本各地から刃部磨製石斧が突然出土し始めます。すでに日本国内で1,000本以上が見つかっていますが、まだまだ見つかるでしょう。そして、それより古い刃部磨製石斧がオーストラリア北部から出土しているのです。

 刃部磨製石斧とは刃の部分をきれいに磨き上げた石斧です。順当に考え合わせると、はるか南の島にいた日本民族のご先祖さまが刃部磨製石斧を発明し、その石斧で丸木舟をつくって長距離外洋航海を成し遂げて日本列島に到達したのでしょう。

 ところで、ブラジルのセラ・ダ・カピバラ国立公園というところに世界一の数を誇る岩絵が残されていて、それがユネスコの世界遺産になっていることをご存知でしょうか?

ボケロン・ダ・ペドラ・フラーダ遺跡の岩絵 Rock paintings of …

・民族藝術学会編『民族藝術 VOL.16 2000』
 82頁5行目から
 民族藝術学会では次のような報告がされています。

<ボケロン・ダ・ペドラ・フラーダ遺跡の発掘時に発見された彩画のある岩石断片からは、鮮新世の最晩期である29,000±650BP(GIF6651)という年代数値が示す時期に、人々が絵画制作をおこなっていたことを示している>

 約3万年前の南北アメリカ大陸は陸路が完全に閉ざされており、海から上陸するしかありませんでした。

 カナダ一帯は巨大な氷河に覆われていて、シベリアからの陸路は開かれていませんでした。シベリアとアラスカの陸橋が通れるようになるのは1万2,000年前頃からです。

 そうすると、約3万年前に海をわたってブラジルに岩絵を残せる民族とは、少なくとも現時点では、日本民族しか可能性がないでしょう。

 アマゾンから縄文土器が出土しているということをご存知でしょうか。日本の学者は一切口にしませんが実際に現地の教科書ではそう記述しているそうです…。

 その話を、元アマゾナス日系商工会議所会頭の山岸照明氏が、(一社)日本ブラジル中央協会のコラムに書いていております。

アマゾン河Ⅱ | 日本ブラジル中央協会 ウェブ SITE

 このコラムの「アマゾンの人々」という項の3行目から次のように記されております。

<私もマナウスに着いた当時、川沿いの市場等の周りを裸で駆け回る子どもたちのお尻には鮮やかな蒙古斑点が見られ“成る程”と思っておりました。>

<又、マナウスの学校の教科書には日本の縄文時代の土器が、アマゾンで発見されているとの記事を見たことがありますので、(後略)>

 現地の人はアマゾンで出土する土器を、「日本の縄文時代の土器」と認識しているようです。そして現地の子どもたちのお尻には我々日本人と同じく、蒙古斑が鮮やかに見られるそうです。

 さて、約1万年前の日本国内からは、アフリカが原産であるヒョウタンが出土しています。国立歴史民俗博物館の「くらしの植物苑だより No.53」には以下のように記されています。

<ユウガオ(ヒョウタン)が日本列島に登場するのはとても古く、およそ1万年前の縄文時代早期の遺跡から種子や果実の皮が出土しています。福井県三方町の「鳥浜貝塚」と、滋賀県の琵琶湖底にある「粟津湖底遺跡」の2カ所で見つかっています。>

<縄文時代前期のおよそ7千年前の「曽畑貝塚」からは、未使用の完全な果実もみつかっています。>

 少なくとも9,900年前のアメリカ大陸からもヒョウタンが出土していますが、こちらは海流に流されてアフリカ大陸からたどり着いたのだとされています。しかし、アフリカ大陸から日本列島まで流れてくる海流はありません。

 ということは、1万年前の福井や滋賀の縄文人はアフリカまで行って帰ってきたことになります。

 ちなみに、滋賀県の鳥浜貝塚からはこれも日本最古のウルシ材が出土しています。

鳥浜貝塚から出土したウルシ材の年代

 ウルシは日本原産ではありません(ただし日本原産の可能性を指摘している人もいるようです)。

 鳥浜貝塚の縄文人は海外に出て行って、日本国内にはない珍品を持ち帰ってきたのでしょう。

 また、7,000年前のヒョウタンを持ち帰ってきた曽畑貝塚の人々は曽畑式土器を完成させます。その曽畑式土器は完成したとほぼ同時に、世界各地から出土するようになります(曽畑式土器については別項目で説明します)。

 こうして縄文人が世界中と交流していた姿が浮かび上がってきます。

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