【訃報】「夜の銀座の象徴」丸源ビル・川本源司郎氏回想(前)
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「川本源司郎」──。なつかしい名前を目にした。「銀座の大家」と呼ばれた丸源ビルのオーナーだ。脱税で4年の懲役刑が確定して以降、その消息を知ることはなかったが、今年2月に亡くなっていたと報じられた。福岡・小倉出身の“怪人物”の軌跡を振り返ってみよう。
今年2月、91歳で死去
ジャーナリストの伊藤博敏氏は、情報サイト「現代ビジネス」に寄稿した「『銀座の大家』亡き後の『丸源ビル』衝撃の現在…3カ月で400億円近くのカネが動いた」(2024年7月4日付)の記事で、「川本(源司郎)氏は、今年2月12日、91歳で亡くなっていたことが判明した」と報じた。
記事によると、
〈川本氏は個人資産として、銀座8丁目の「丸源25ビル」を所有していたが、4月26日、都内や福岡の6名の親族が、2月12日に発生した相続で取得。6月10日に東京・渋谷の不動産業者に共有者持分全部を移転し、同社が東京・渋谷の不動産業者に即日転売した。
川本氏が最後に残した銀座の物件は、「丸源25ビル」など8物件で、〈中略〉銀座の不動産業者が弾き出した価格が7物件(1物件は未調査)で約370億円だった。8物件なら概算約400億円である〉
川本氏が「銀座の大家」に駆け上がった軌跡をたどってみよう。
呉服屋から飲食ビル賃貸に、福岡・中洲に進出
川本源司郎氏は1932年3月、福岡県小倉市(現・北九州市)の呉服屋「丸源」に生まれた。慶應義塾大学を1年で中退して家業を継いだ。木造の貸家を8階建てのビルに改築したことが貸しビル業に踏み出すきっかけとなった。
呉服屋をたたみ、60年、飲食ビル賃貸業に転じた。飲食店に家具付きで貸し出す手法が受けて、事業は順調に伸び、福岡・中洲に進出した。
スナックやクラブが入居するビルには番号が付いている。「丸源1ビル」は北九州市小倉北区京町にあったが、小倉駅前再開発にともない解体された。中洲には「丸源36ビル」「丸源37ビル」があった。
東京に進出、夜の盛り場を制する
72年に東京進出。2年後の74年に、まだ飲食ビルが少なかった銀座の目抜き通りに10階建てのビルを建て、80年までに銀座に8棟のビルを所有するまでになった。丸のなかに「源」という赤いネオンは、夜の銀座の象徴になった。
バブル期には、銀座、六本木や赤坂、福岡・中洲などに約60棟あり、約5,900のテナントが入居。丸源は夜の盛り場を制覇したといわれた。
バブル期には、総資産は1,000億円を優に超えるといわれ、資産家として雑誌にたびたび登場した。映画『地平線』(新藤兼人監督)に8億円をキャッシュで出したエピソードは、今でも語り継がれているほどだ。
(つづく)
【森村和男】
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