かつての天神ランドマーク イムズの追憶(前)
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天神に“黒船”来襲 異彩を放つIMS
現在、再開発プロジェクト「天神ビッグバン」が佳境に差し掛かり、徐々に新たな再開発ビルが出現している。その再開発の過程で、かつて天神エリアで林立していた「天神セントラルプレイス」「福岡ビル」「天神コアビル」「天神ビブレビル」などの名だたるビルが次々と取り壊されていったが、そうして取り壊された著名なビルの1つとして、「天神MMビル」がある。
建物の正式名称ではピンとこないかもしれないが、商業施設名を聞けば、福岡の人間ならば誰しもがその姿を思い浮かべられるだろう。それは、天神を象徴するランドマークの1つであり、2021年8月末をもって惜しまれつつも閉館を迎えた「イムズ」だ。
1989年4月に開業したイムズ(IMS)は「Inter Media Station」の頭文字から名付けられており、「情報受発信基地」をコンセプトとした当時としては先進的な商業施設。金色を思わせるタイルで装飾された八角柱の外観は、当時の天神エリアのビル群のなかでも異彩を放っていた。
また、ビルの中央部を地下2階から地上8階まで貫く大きな吹き抜けのほか、湾曲したスパイラルエスカレーターなど建物内部も先進的な仕掛けの数々で、それまでの百貨店のような商業の場としての機能だけでなく、自動車メーカーのショールーム機能の導入、イムズホールやアートギャラリー・三菱地所アルティアムでの文化発信機能など、当時としては唯一無二の個性を発揮していた。
そのイムズの開発を手がけたのは、三菱地所(株)と明治生命保険(相)(現・明治安田生命保険(相))グループで、それまでは地場勢が幅を利かせていた福岡・天神エリアにとっては、全国大手という“黒船”的存在。一方で、三菱地所にとっても初めて手がけた都心型商業施設がイムズだった。ちなみに、建物の正式名称「天神MMビル」の2つのMは、事業主体である三菱地所と明治生命の頭文字を表している。
黒船との熾烈な争いで地場連合敗れる
三菱地所&明治生命という“黒船”が手がけたイムズだが、その開発をめぐっては、実は福岡の地場業者との間で水面下での熾烈な戦いが繰り広げられたとされている。
イムズが建てられていた土地はもともと福岡市の所有であり、市は天神再開発を目的に、85年に土地活用のコンペを開催。それに三菱地所&明治生命グループが手を挙げたのだが、それに対抗して地場代表として名乗りを上げたのが、福岡地所(株)であった。
当時、福岡地所の代表取締役社長を務めていた榎本一彦氏(現・取締役ファウンダー)は、「不動産業を営む以上、天神に拠点を構えなくてどうする」と意気込み、当時の(株)福岡玉屋(百貨店)と組んで、中央大手を返り討ちにしようと迎え撃ったという。福岡地所&福岡玉屋グループの提案では、建物の設計に世界的な建築家・磯崎新氏を据えていたそうだから、その本気度がうかがえる。また、市の所有地であったことから、「当然、地元優先で進むだろう」という見立てで、楽勝ムードさえ漂っていたという。
ところが蓋を開けてみれば、下馬評に反して審査委員たちは三菱地所&明治生命グループのプロジェクトを選択。福岡地所&福岡玉屋グループはコンペに敗れ、福岡地所は「天神に拠点を」という宿願をはたせず、また福岡玉屋はその後、倒産の憂き目に遭うという結末となった。
なおその後、福岡地所は天神ビッグバンの第1号プロジェクト「天神ビジネスセンター」を21年9月に竣工。これによって、天神に拠点を構えるという30年越しの悲願をはたすことになる。現在は福岡市役所北別館跡地を含めた天神ビジネスセンターの隣接地で「(仮称)天神ビジネスセンター2期計画」を進め、天神の拠点をさらに強固なものにしようとしているが、それはまた別のお話…。話を再びイムズに戻していこう。
地場開発に一石を投じた三菱・イムズの功績
「当時のイムズは、事業者目線で見ても垢抜けていたと思います。天神だけでなく福岡のまちにとって、イムズの誕生は非常に大きなインパクトがあったと思います」――と振り返るのは、イムズ開業に際してテナントリーシングなどを担当し、深く関わっていた有馬正(仮名)氏だ。
実は同氏は前述のイムズ開発前の土地活用コンペにおいて、福岡地所&福岡玉屋グループ側に属し、テナントリーシングなどを担当していた人物。だが、福岡地所&福岡玉屋グループは敗れたものの、同氏が提案していた想定テナントの内容などが評価され、コンペ終了後に今度は三菱地所&明治生命グループから声がかかり、紆余曲折あってイムズ開業に際してテナントリーシングで手腕を発揮したという。つまり、地場と中央大手のどちらの提案内容および開発のやり方についても、両方を裏方的に見てきた人物なのだ。
その有馬氏はイムズについて、「それまでの商業施設は『何を売っているか』がポイントになっていましたが、イムズは『どういうことができるか』をウリにしていました。今でいう『コト消費』の走りのようなもので、ここ福岡においてはイムズが先鞭をつけたといっていいでしょう」と評価する。
有馬氏の話によると、イムズはそれまでの都心部の商業施設にありがちな「単なるモノを売る建物」とは一線を画していたという。掲げられた「情報受発信基地」というコンセプト通りにホールやアートギャラリーなども備えるほか、シースルーのエレベーターが行き来する中央部の巨大な吹き抜けが来訪者を圧倒。その吹き抜けの底にあたる地下2階のイムズプラザでは各種イベントが開催され、その横を緩やかなカーブを描くスパイラルエスカレーターが上っていく。さらに、上層階の12~14階部分にも吹き抜けを備え、天空の街のような飲食店街が形成されているなど、来訪者に何ともいえないワクワク感を感じさせる仕掛けが随所にちりばめられていた。施設入口に生花店を配置して来訪者をまず花で出迎えるやり方も、当時としては画期的だった。
そうしたイムズの画期的な事例として有馬氏が挙げるのが、都心の一等地に立つ施設でありながら、地上4階部分に自動車展示場を備えていたことだ。当時の自動車展示場といえば、多くの車を陳列する関係上、少し郊外のロードサイドに広めの店舗を構えていたケースがほとんどで、その傾向は今でも大きく変わりはない。ところがイムズでは、そうした先入観にとらわれず、地上4階という空中階に自動車展示場を据えた。その意図は、郊外の店舗であればお客を呼ぶために定期的にキャンペーンを行いつつ、その周知のための広告を打たねばならない。ところが、都心のイムズであれば、特別なことを行わなくとも人が集まる素地は整っている。当時のイムズの1日当たりの来館者数が約5万人と試算されていたことを考えれば、下手に広告を打つよりもイムズに入る家賃のほうが安くつく、という見立てだ。
こうしたそれまでの常識を打ち崩した風変わりな施設だったイムズは、ちょうど同時期に開業した西日本鉄道(株)の「ソラリアプラザ」(89年3月開業)と比較されることも多かったという。「当時の福岡のテナントに対して、『西鉄のソラリアに入るか、三菱のイムズに入るかで、あなたの文化度が問われるんですよ』―などと言うケースもよくありましたね」(有馬氏)。
なお、天神エリアではイムズの開業後も、複合施設「アクロス福岡」(95年4月開業)や「岩田屋Z-SIDE」(96年9月開業)、大丸東館「エルガーラ」(97年3月)、西鉄福岡駅や天神バスセンター、福岡三越が入るソラリアターミナルビル(97年10月開業)など、数々の名だたる施設がオープンしていったが、イムズの存在はこれら後発組に対しても、少なくない刺激や影響を与えたことだろう。
「それまで“井の中の蛙”のように、狭いコップのなかでの争いを繰り広げていた福岡の開発ですが、三菱地所によるイムズは、コップのなかの嵐に一石を投じて、コップそのものを割ってくれたように思います」と有馬氏は、イムズの功績を改めて評価する。
(つづく)
【坂田憲治】
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