生成AI狂騒曲~「Web現代」の挑戦から見える未来(前)

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『週刊現代』元編集長 元木昌彦 氏

 生成AIという怪物が世界中を席巻している。近い将来、AIが小説を書き、新聞や雑誌もAIが企画立案から取材、執筆までしてくれる時代が来るといわれる。そんなバカなと私は思ってしまうのだが…。(文中敬称略)

世界初のAI新聞と記者が消える日

イメージ    生成AI(ジェネレーティブAI)が世界中を席巻している。学習したデータを基に新しいコンテンツや情報を生成でき、文章、画像、音声、動画、音楽などのさまざまな形式のコンテンツを自動的に生成するという“万能の神”のようなものだと囃し立てられている。

 機を見るに敏なソフトバンクグループの孫正義会長兼社長は、1月にオープンAIのサム・アルトマン最高経営責任者(CEO)とホワイトハウスを訪れてトランプ大統領に会い、AI関連事業に78兆円を投資すると言明したことが大きな話題になった。

 少し前から、NHKのニュース番組のなかでも、AIによる自動音声によるニュースの読み上げが始まっている。

 だが、それだけではない。AIだけで新聞をつくる試みも始まっているようだ。

 GIZMODE(03月20日)によれば、

 「イタリアの保守派新聞Il Foglioが、AI生成記事のみで新聞を作成しました。AI100%新聞はこれが世界初。

 Il FoglioのAI新聞は4ページで、3月18日付けの火曜特別版にセットで配布されました。オンラインでも見ることができます。

 この新聞、記者(人間)が手を入れたのは、AIチャットbotに質問することとそれを読むことだけ。Il Foglioいわく、AIがニュース編集部としてどこまで実用に足るかを見るため、かつ記者たちには未来のジャーナリズムにおいてテクノロジーが何を意味するのかを問うための、実験的な試みだったとのこと。

 Il Foglio編集部のClaudio Cerasaはこう語っています。

 『完全に人工知能でつくられた、ニューススタンドに並ぶ世界初の日刊紙となります。記事執筆も、ヘッドラインも、引用も、要約もすべてAIです。ときに出てくる皮肉な言い回しもです』」

 私は実際の紙面を見ていないので何ともいえないが、これまでは、いくら人工知能が発達しても記者や編集者という仕事はなくなることはないといわれてきたのに、その分野までAIに奪われるのかもしれない。

 最近はあまりいわれなくなったが、少し前までは「シンギュラリティ(Singularity)」という言葉が盛んに使われた。

 アメリカの未来学者レイ・カーツワイルによって提唱された概念で、AIが自己フィードバックによって改善を繰り返して人間の知能を超えるという仮説である。

 2045年にシンギュラリティに到達すると予測されていることから、2045年問題とも呼ばれているが、残り僅か20年。

 このままAIが進化し続ければ、そんな日が来るかもしれないという「幻想」を抱かせる、今日このころのバカ騒ぎぶりである。

 本当だろうか? 私には、今から30年前に起きた「Windows 95」フィーバーを思い起こさせるのである。

 マイクロソフトが発売したWindows 95により、それまでは一部の人だけがもつパーソナルコンピューター(PC)を、多くの人がもてるようにした画期的なものであった。

 私が週刊現代編集長の時だった。NECにいた私の友人が「使ってみないか」とPCを1台持ってきてくれた。

 どこをどう押せばいいのか一切説明なしで置いていったため、何も分からず、家にもって帰って悪戦苦闘しながら、どうにか動くようになった。

 さて、何を見るか? 多くの初心者同様、女性のヌード写真をダウンロードしようとネットサーフィンして、雑誌プレイボーイのピンナップガールのような写真をクリックした。

 だが、待てど暮らせどダウンロードできない。深夜になり、仕方なくそのままにして床に就いた。

 朝、PCを見ると、女性のおヘソのあたりまでダウンロードできていた。しかし、こんなものをカミさんに見つかったらと思い、仕方なくPCをシャットダウンした。

 これが私のIT初体験だが、それからインターネットの面白さに目覚め、これを使って新しい雑誌コンテンツができないかを考えるようになった。

Web現代創刊秘話と早すぎた挑戦

 1997年に週刊現代を離れ、「新雑誌企画部」なる部署の責任者になった。週刊現代や月刊現代(その後休刊)に代わる新雑誌を考えろというのである。

 私は2つの案を考えた。1つは「TIMEの日本版」である。アメリカのTIME本社に行って条件交渉をした。TIME側は予想外の破格の好条件を提示してくれた。

 だが、社の上の人間はウンといわなかった。彼らがゴーサインを出したのは、2つ目の企画「インターネット(当時はWebといっていた)を使った新週刊誌」のほうだった。

 「お金もかからないし編集部員も少人数でいい」という私のプレゼンが、彼らの心に響いたようだった。

 雑誌名は『Web現代』と決めた。私は、紙媒体と同じようなものをつくる気はなかった。インターネットという最新技術を使って、出版社のなかに「小さなテレビ局」をつくろうと考えたのだ。

 近い将来、小さなカメラとPCがあれば、世界のどこからでも最新の映像を送ることができるようになるはずだ。そのためにはITにも精通しているジャーナリストを育てなければいけない。

 今、ビデオジャーナリストとして活躍している神保哲生と、そんな夢を語り合っていた。

 アナウンサー経験のある女性ジャーナリストにきてもらって、毎週、独自のニュースや、週刊現代、フライデーの記者に出てもらって特ダネの裏話を話してもらったりする「NewsWebJapan」をつくった。

 それに加えて、講談社のもっている多くのコンテンツをデジタル化して販売することも考えていた。

 編集部員3人、記者5、6人、プログラマー3、4人の小さな所帯だったが、凸版印刷とNECのBIGLOBEが協力してくれることになった。

 創刊は99年10月29日。目玉企画として、その年6月に起きた「全日空機ハイジャック事件」のコクピット内での機長と犯人の交信記録を放送し、大きな話題になった。

 その他のコンテンツは「写真家・宮澤正明の写真館」「立川談志の世相放談」、私が校長を務める「編集者の学校」「嵐山光三郎の快楽温泉」「版画家・山本容子のはなうた工房」など。今見てもなかなかのラインナップである。

 3人組の女性アイドルグループ「LINK LINK LINK」を結成してCDを何枚か出した。その後、女性の1人は落語家・立川志らくと結婚した。

 だが、重大な問題が解決していなかった。それはブロードバンドである。BIGLOBEなどからも「もうすぐブロードバンドの時代が来る」といわれていたのだが、一向にそうはならなかった。

 編集部はブロードバンドだったから、動画を見るのに支障はなかったが、視聴者が自分のPCで見ると、少し長い動画はフリーズしてしまった。これは編集部では如何ともし難かった。

 今の若い人たちには想像もできないだろう。それに、PCの新型モデルが半年ごとに発売され、性能がアップするため、その度に買い替えなければいけなかった。今のように10万円を切るPCがある時代ではない。

 プロ用だと50万円以上の機種になるから、それだけでも大変な出費だった。その上、広告が入らない。社の広告部も動き、電通にも相談したが、当時はネット広告のノウハウはどこももっていなかった。

 「宮澤写真館」を有料にしたが、当時は小銭を課金するシステムが未発達だったため、会員数を増やすことは簡単ではなかった。

 何しろ本邦初、いや、世界初のネット週刊誌「Web現代」だったから、ノウハウを一つひとつ自分たちでつくっていかなければならなかったのだ。

 あとで、ネットに詳しい人たちが一様にいったのは、「元木さん、あと3年遅く始めていたら、日本のネットの歴史に燦然と輝く存在になっていた」ということだった。

(つづく)


<プロフィール>
元木昌彦
(もとき・まさひこ)
『週刊現代』元編集長 元木昌彦 氏『週刊現代』元編集長。1945年生まれ。早稲田大学商学部卒。70年に講談社に入社。講談社で『フライデー』『週刊現代』『ウェブ現代』の編集長を歴任。2006年に退社後、市民メディア「オーマイニュース」に編集長・社長として携わるほか、上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。日本インターネット報道協会代表理事。主な著書に『編集者の学校』(講談社)、『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)、『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)、『現代の“見えざる手”』(人間の科学新社)、『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)など。

(後)

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