【特集】旧態依然とした政界の象徴・麻生太郎氏へ引退をお勧めする

 夏の参院選まであと2カ月となった。裏金問題や消費減税への消極的な姿勢などから石破内閣・自民党の支持率は下がる一方である。人事を多少入れ替えたところで急場をしのぐことにもならないだろう。そうしたなか、9月に85歳を迎える麻生太郎自民党最高顧問がにわかに動き出した。

麻生・高市連携の裏 冷や飯組の反撃始まる

講演を行う麻生氏
講演を行う麻生氏

    5月14日、自民党本部で「自由で開かれたインド太平洋戦略本部」が初会合を開いた。会合には、高市早苗前経済安全保障担当相や茂木敏充元幹事長、萩生田光一元政調会長や西村康稔元経済産業相ら旧安倍派議員など石破茂首相に批判的な「非主流派」が顔をそろえた。いずれも「保守的」だとされる面々だ。

 戦略本部は2021年11月に政調会長だった高市氏の主導で設置されたが、安倍元首相の逝去もあり約3年間活動停止状態にあった。今回の会合は高市氏が麻生太郎氏に協力を要請したことから動き出した。「自由で開かれたインド太平洋」の概念は、安倍政権時代に打ち出され、中国の海洋進出を念頭に日米同盟を基軸とした対中包囲であるといわれる。フィリピンやベトナム、インドネシアなどとの関係強化は石破政権においても引き継がれている。麻生氏も会合において「アジアの国々と欧米との架け橋になることが日本の最も期待されているところだ」と述べ、「中国やロシアなどの脅威がある」と強調したという。

 だが、表向きの説明とは別に参加者の顔ぶれからもわかるように真の目的は別にある。いうまでもなく、党内政局だ。麻生氏にとって、首相時代に辞任を迫った石破首相は今なお許すことができない相手だ。党内バランスを考える森山裕幹事長の麻生氏への配慮で、30年前に党則から削除されていた最高顧問職を復活させたが、「閑職」といってよい。
 キングメーカーとして権勢を振るった岸田政権のころを思えば急転直下だろう。現執行部の「石破──森山ライン」では麻生氏も高市氏も何ら発言力をもつことができないでいる。高市氏は消費減税に消極的な「石破──森山ライン」に「私たちの敗北かな」(17日の札幌市での講演での発言)と述べている。

 財務省寄りの麻生氏と、減税を主張する高市氏とでは財政政策の隔たりはあるが、国家観では多くの点で共通項がある。昨秋の総裁選で麻生氏は、投開票前夜に麻生派のメンバーに「第一回投票から高市氏に投票するように」と指令した。

 麻生氏が高市氏を応援したのは、石破氏が首相になると一気に冷や飯を食らうことになると理解していたからだ。政敵である菅義偉前首相が石破氏に近いのも気に入らない理由であった。総裁選投票後、麻生氏が新総裁に決定した石破氏に一礼しなかった映像がSNS上で話題になったほどだ。

 いずれにしても高市氏の戦略本部再開の要請は石破政権下で「冷や飯」組の麻生氏にとって再登板のチャンスのようだ。結局、国民の生活よりも、政治家のプライドや利害が大事なのであろう。

麻生と岸田の因縁 加藤の乱の記憶

 「自由で開かれたインド太平洋戦略本部」会合の2週間後、28日夜、麻生氏は岸田文雄前首相、茂木敏充前幹事長と東京都内の日本料理店で会合をもった。

 麻生・岸田・茂木の3者は岸田政権の主流派であり、政権当時は頻繁に会合をもつ関係にあった。「三頭政治」とも呼ばれた3者だが、岸田政権末期、安倍派をはじめとする自民党派閥の政治資金不記載問題で岸田氏が派閥の解散を行ったころからすきま風が吹くようになった。今回の会食は参院選後の政局を見据えた意見交換が目的であるとみられる。

 ただ、3者ともそれぞれの思惑は異なり、かつてのような緊密な関係ではないとの見方が多い。とくに麻生氏と岸田氏の隔たりは大きいようだ。岸田氏は自民党内でもリベラル傾向のある宏池会(旧・岸田派)出身で、かつては政治の師と呼んだ古賀誠元幹事長や加藤紘一元官房長官に近い立場にあった。

 今から25年前、ある有名な事件が起きた。2000年11月、当時の森喜朗内閣の不支持率は7割を超え、野党は退陣を声高に主張していた。加藤氏は森政権の倒閣に動き出す。自ら率いる加藤派(宏池会)と盟友・山崎拓氏の山崎派(近未来政治研究会)とともに、野党の内閣不信任決議案に賛成する動きを示し、森氏に辞任を迫った。いわゆる「加藤の乱」であるが、野中広務幹事長を中心とする党執行部の切り崩しに合い、加藤派は分裂状態となった。加藤派幹部であった古賀氏も「反乱鎮圧」に動いた。加藤氏の誤算は山崎・加藤・小泉の3人で「YKK」と呼ばれた1人の小泉純一郎氏が敵に回ったことだろう。

 古賀氏は元首相で、森内閣の大蔵大臣を務めていた宮澤喜一氏を密かに訪ね、対応を協議したという。派閥の若手議員を追い詰めないよう配慮することなどが話し合われたようだ。根回しが行われ、加藤氏の陣営から日を追うごとに人が減っていった。

 このとき、岸田氏は加藤氏に同調して、最後まで行動していたが、岸田氏の著書『岸田ビジョン 分断から協調へ』(講談社)のなかでも権力闘争の凄まじさを言及している。乱後に加藤派は一気に勢いをそがれ、小泉氏の首相就任で、一気に自民党内の主流派が入れ替わった。約20年以上におよんだ清和会(旧・安倍派)の一人勝ちは「加藤の乱」での加藤氏の敗北が大きかった。

 では麻生氏は「加藤の乱」の際、どのような立場にあったのか。麻生氏は河野太郎氏が率いる大勇会(河野グループ)の一員で、かつては宏池会の一員であった。大勇会は宮澤元首相後の宏池会の跡目争いに加藤氏が勝利したことで、それを不服とした河野氏らが離脱して結成された。こうした経緯があって麻生氏は後に、旧宏池会の再結集を掲げ「大宏池会構想」を打ち出すことになる。

総理までの経緯 積極派か緊縮派か

 加藤の乱後の01年、麻生氏は自民党総裁選に出馬し、小泉純一郎・橋本龍太郎・亀井静香の3氏と戦い3位であった。その後小泉政権では党政調会長を務め、総務大臣や外務大臣などを歴任。麻生氏は安倍晋三、福田康夫両首相の清和会政権でも主流派に食い込んで、政界で台頭していった。

 麻生氏は06年の総裁選では安倍氏に敗れ、07年の総裁選に再び立候補し福田氏に敗れたが、党幹事長の立場にあり結果として非主流派に追いやられなかった。この時期は過渡期でめまぐるしく内閣が交代しており、麻生氏は強運であった。08年の総裁選で小池百合子氏や石破茂氏らに勝利して党総裁に就任、首相に就任した。

 「日本を明るく強い国にする」を掲げ、首相在任中は公共事業を中心とする財政出動に積極的で財政健全化よりも景気対策の優先を打ち出していた。麻生氏は郵政民営化に象徴される小泉政権の路線を見直すことで日本の経済成長を再生しようと考えていたのだろう。「俺たちの麻生」とインターネット上で支持が強かった若い世代を中心とした麻生氏の人気の背景には、間違いなく経済再生に対する期待感があった。

 ところが民主党政権を経て第2次安倍政権で財務大臣に就任すると一転して財政健全化や緊縮財政路線に転じた。ただ、産経新聞特別記者の田村秀男氏と元産経新聞政治部長・石橋文登氏の共著『安倍晋三vs財務省』(育鵬社)によるとやや様相が異なる。

 田村氏は安倍氏が第二次政権で麻生氏を財務相に据えたのは、「麻生さんが積極財政に理解があると踏んでいたから」との見方を示し、石橋氏は「麻生さんは安倍さんよりも古くから積極財政派ですよ」と応じている。

 田村・石橋両氏の見方がその通りであるならば、麻生氏の本心は「積極財政」ということになるが、実際の行動は違う。5月15日の麻生派会合で、麻生氏は「ポピュリズムに流されることなく、過去、現在、未来に責任をもつ保守政党としての誇りを見せたい」と述べたが、自民党内でも強まる消費税減税を牽制したものと受け止められている。財務大臣を経験し、財政均衡論を否定できないところがあるのだろうか。

大家氏非公認に 地元県議が猛反発

 麻生氏はこのところ地元・福岡の自民党県連とも微妙な関係にある。その発端は、昨年の衆院選で福岡9区を全国唯一の公認空白区とされたことにある。

 自民党県連は、公募と党員投票で選出した大家敏志・参議院議員を9区の公認候補として党本部に公認申請の上申書を提出したが、麻生氏の強い反対で衆議院への鞍替えは最後まで認められなかった。

 このときに党本部を猛烈に批判したのが、北九州市若松区選出で16日の臨時議会で副議長に選出された中尾正幸県議だ。「なんの瑕疵(かし)もなく党員投票をやって、(大家氏が)圧倒的な勝利を得た。もうかれこれ2カ月経つ。日本全国で支部長が決まっていないのは、この9区と10区(10区はその後、吉村悠氏に決定)だ。自民党本部は異常だと思う」。

 当時、中尾氏は自民党県議団幹事長で、地元関係者によると、麻生氏を名指しこそしていないものの、怒りは大きかったという。責任者である茂木敏充幹事長が、麻生氏を慮って決定を先延ばししたのである。さらに麻生氏は9区からの立候補を目指していた三原朝利元北九州市議を評価していたことも知られている。

 麻生氏の意を汲んで、三原氏を水面下で応援していたのが、小倉北区選出の中村明彦県議だ。当選回数は11期で、1998年5月から99年4月まで県議会副議長を務めたベテランでもある。髙島宗一郎福岡市長に近いとされ、2017年4月に福岡空港出資をめぐり自民党市議団が分裂するなど議会が二分した際、髙島市長に反対派の切り崩しを指南したのは中村氏だといわれている。安倍昭恵夫人と懇意で、昭恵氏は「中村明彦県議の奥さまに頼まれて来ました」と三原氏の街頭演説に駆けつけた理由を明かしていた。

 結局、9区では自民党公認は立候補していないが、除名処分を受けた三原氏を応援したことについて、中村氏への批判の声が挙がっていた。

腹心県議が県議団から追放

 衆院選後しばらく表立っての話は聞かれなかったが、3月29日夜、自民党サイドに近い筋から「中村氏が県議団から外されるとの話をご存じですか」というメールが届いた。土曜日ということもあり、のんびりと過ごしていたが「まさかこのタイミングで」と思いつつ、情報収集を行った。自民党福岡県連は県議団が役員の多くを占め、主導権を握っているが、中村氏の動きを以前から快く思っておらず、「反党行為」の疑いをもたれていたようだ。

 4月1日に自民党県議団は会派を解散し、新たに「自民党県議団」結成の届け出を議長に提出した。名称も構成もほとんど変わらないが、そこに中村氏の名前はなかった。麻生氏の腹心といわれた中村氏の事実上の追放であった。メールが送られてきた3月29日時点で根回しは終わっていたのである。関係者は「中村氏以外にも麻生氏に近い数人が会派を出るかもしれない」とみていたようだが、いずれも会派にとどまった。麻生氏に近い数人とは、田川市選出の神崎聡県議、福岡市南区選出の樋口明県議である。

 だが福岡県政の重鎮・蔵内勇夫氏(議長)に逆らう勇気のある県議はいない。先月の県議会議長選挙では中村氏を含めて県議の大半が蔵内氏に一票を投じた。福岡政界における麻生氏と蔵内氏の力関係はいまや逆転したといってよい。蔵内氏は全国議長会議長のほか、来年4月、世界獣医師会会長に就任することが予定されている。自民系だけでなく旧民主系を含めて福岡県内の地方議員は「(蔵内氏は)国会議員以上に国会議員らしい」と言ってはばからない。

 昨年1月、地元・飯塚市「コスモスコモン」で開催された麻生氏の国政報告会を取材した。会場は約1,000人の聴衆でほぼ満席。麻生氏が首相時代、福岡入りした際、記者も友人らと駆けつけ、我先にと握手を求めたことが思い出された。

支援者に挨拶する麻生氏
支援者に挨拶する麻生氏

    麻生氏は当時副総裁であったが、裏金問題で派閥解散の流れとなり、岸田首相とも隙間風が吹き始めた時期だった。普段に比べ、発言も慎重な言い回しだった。麻生節を期待した人たちにとっては、やや物足りない印象だったかもしれない。

 国政報告会が終わり、散会していく来場者の会話が耳に入ってきた。「もう麻生さんも年齢が年齢だから、跡継ぎを考える必要がある」。後ろを振り返ってみると年配の方で長年の支援者らしかった。率直な地元民の声だろう。

 中央政界・福岡政界ともに影響力に陰りが見え始めた麻生氏。今後の去就は定かではないが、今夏の参院選で自ずと結果となって表れてくるのではないだろうか。

【近藤将勝】

法人名

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