復刻版『縄文人の日本史』出版準備進行中

縄文アイヌ研究会
主宰 澤田健一 氏

 皆さまからの御協力を賜りながら復刻版『縄文人の日本史』出版作業が順調に進んでおります。

 復刻版「あとがき」まで書き終わりましたのでご紹介させていただきます。

 ご一読くだされば幸甚に存じます。

復刻版あとがき

  復刻版を発刊するにあたり文章を読みやすく修正を加えた。ただ重要な事項はそのままとした。当時では分からなかったことでも、後の研究や新たな発見などにより分かってきたことも多い。しかし、それを書き直しや書き加えなどはしないこととした。これはあくまでも平成末までに判明していた事実に基づいて書いたものである。

 たとえば160頁では、「磨製石器は日本が世界最古」と書いたが、176頁では「オーストラリアにも日本と同じ頃から刃部磨製石斧が存在しており」と書いている。ところが近年、オーストラリアから約六万五〇〇〇年前の刃部磨製石斧が出土したと報告されている。日本民族南方渡来説を唱えている筆者としては尤(もっと)もなことだと思う。であれば、もう少し幅をもたせて書いておけばよかったと反省している。

 また、163頁では「日本では三万五〇〇〇年前頃から、旧石器時代の遺跡が大量に見つかっている」と表現していたが、現在では約三万八〇〇〇年前とする学者が多く、さらには約四万年前とするものもしばしば見受けられる。

 今後もこうした見直しは繰り返されていくであろう。今まで予想もしなかった新事実が驚きをもって公表されることも古代史の醍醐味(だいごみ)である。そうであっても本書の大筋は変わることはないと(少なくとも今は)信じている。

 1つ例を挙げると、100頁で「その答えは1つしか思い浮かばない。それは北方民族とされるオホーツク人もまた、先祖は縄文日本人だったということではないだろうか」と書いている。これは「はじめに」でも引用したが令和二年の東京大学、東京大学大学院、金沢大学の合同研究による『縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史』では、「縄文人が東ユーラシアで最も古い系統の1つであることを示唆する」と述べられており、さらには縄文人は東ユーラシア人の祖先集団である可能性が書かれている。こうした事実が1つ1つ解明されていくことを期待している。

 さて、本書では続縄文人(弥生時代の北海道人)はコメなどつくっている暇はなかったという主旨で書いているが、「つくらなかった」のではなく「つくれなかった」のだとご指摘をいただいた。ここは大事なところなので、この誤解を解いておく。ほとんどの方は北海道では稲作が不可能であったが、明治以降の品種改良によって北海道でも米をつくることができるようになった、と思われているのではないだろうか。

 実際は、北海道での米づくりは江戸時代から始まっていたのである。南部家の攻撃を受けて東北から逃げてきた安藤家を慕ってその家臣団が道南へとわたってきたことは本文で書いた。その人々が道南で米づくりを始めたのである。赤毛という米であるが、これは寒冷地でも育つのである。明治期に入植してきた中山久蔵はその赤毛米の種もみを無償で開拓民に配布して、恵庭や北広島一帯に水田を広げていったのである。そして久蔵が死んだ翌年の大正九年には北海道米100万石を達成している。これは個人の努力によるもので農業試験場の品種改良とは関係がない。個人の努力で加賀100万石と並んだのであり、江戸時代であれば加賀100万石は大大名である。

 つまり、北海道でも米をつくろうと思えばつくれたのだ。しかし、そんな努力をするよりもヒグマ、ラッコ、オオワシといった獲物を狙う方がよかった。それらは北海道でしか得ることができず、しかも日本国内で高価な値で取引ができる。続縄文人はそうした高価な品々で国内のお宝ものを全国から集めていたのである。

 それが北海道の独自性であり、それ故(ゆえ)にアイヌは独自の道を歩むことになっていく。しかし、朝廷や幕府と違う歩みであっても、常に関連をもって生きてきた。ヒグマの毛皮は古代天皇が下賜する品のなかでも最上級品であり、オオワシの羽は伊勢神宮遷宮のときの神宝であり、武具や馬具も北海道から動物皮や羽の大量供給がなければ成り立たない。とくに高級品ほど北海道からしか入手できないのだ。

 大和朝廷は常に夷を抑え込むことに注力し、それを征夷大将軍が引き継いで夷を征する任にあたってきた。朝廷や幕府の歴史を表の日本史とするならば、夷の歴史は裏の日本史といっていいだろう。その両者とも間違いなくどちらも日本の歴史なのであり、朝廷や幕府と夷は表裏一体となって日本の歴史を織りなしてきたのである。この二本の足で歩んできた日本史を多くの方々にご理解いただけると幸甚である。

令和7年6月

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