長嶋茂雄氏のファンである2人の友人が号泣

1959年の宮崎キャンプからの付き合い

 筆者と長嶋茂雄氏は学年で11期、年齢で11歳の差がある。長嶋氏が立教大学を卒業し、読売ジャイアンツ(以下、巨人)に入団、颯爽とデビューしたのは1958年である。当時、筆者は小学5年生だった。巨人の春季キャンプは、それまで兵庫県明石市で行われていたが、翌59年から宮崎でのキャンプが始まった。キャンプ地は宮崎県営球場で、JR日豊本線宮崎駅から北へ徒歩20分の場所にあった。

 筆者は宮崎県日向市美々津出身だ。自宅からJR美々津駅まで徒歩20分、そこから宮崎駅まで列車で70分、さらに県営球場まで徒歩20分、片道1時間50分かけてキャンプ見学に出かけた。汽車賃の記憶は薄いが、中学2年生までの毎春、計4回、野球場に足を運んだ。

 「ヘイ! カモン、ワンスモア」と、長嶋氏のたどたどしい英語が今も耳に残っている。これは三塁ベース周辺での守備練習中、コーチに球を打つよう挑発する言葉だ。この光景が非常に格好よく、鮮明な記憶として残っている。ある新聞の表現を借りれば、「プロ野球史上、最も記憶に残る選手」と評される長嶋氏。73年までの巨人9連覇に貢献し、翌年の10連覇は中日に阻止されたが、その年に現役を長嶋氏は引退した。それまで筆者は彼の一挙手一投足に注目し続けた。

2人の同級生が「もう終わった」と号泣

 幼稚園から高校まで同級で過ごした幼馴染、荻(仮名)がいる。彼は若いころから運動神経に優れた男だった。この荻と一緒に、巨人キャンプに4回同行した。長嶋氏への信奉ぶりは筆者の比ではなく、彼にとって長嶋氏は神様のような存在だった。「今日の長嶋の打撃練習でのホームラン、素晴らしかったな!」と褒めはじめると止まらない。帰りの列車内での会話は尽きることがなかった。「荻の長嶋氏への思い入れには到底およばない」と悟ったほどだ。

 荻は長嶋氏を追いかけ、中学で野球部に入部。3年生では3番打者として外野を守り、時には投手も務めた。宮崎県の高鍋高校に進学後も、当然のように野球部を選んだ。当時の高鍋高校野球部は絶頂期で、2年に1度は甲子園に出場。筆者が3年生のときには準決勝まで進んだ。強豪校ゆえに越境入学する選手も多く、荻は残念ながらレギュラーになれず、2年途中で退部した。

 その後、荻は神戸に定住し、50歳頃から地域の野球クラブでのプレーを楽しんだ。70歳まではレギュラーとして活躍したが、その後は高齢のため出番が減った。長嶋氏の訃報が流れた夕方、荻から電話がかかってきた。「コダマ! 俺の人生は終わった」と号泣していた。

美祢がここまで長嶋信者とは知らなかった

イメージ    山口県の田舎出身の美祢(仮名)も、高校時代に野球部に所属していたことは知っていた。しかし、彼が長嶋氏にこれほど憧れ、人生の鏡としてきたとはまったく知らなかった。美祢は58(昭和33)年まで野球にあまり関心がなかったが、長嶋氏のデビューに心を奪われた。「なんて格好いい選手なんだ」と震えがきたという。「長嶋さんの後を追い、野球をやる」と決意したのは小学6年生の時だった。

 宮崎県の田舎で育った筆者と荻、そして山口県の田舎出身の美祢は、偶然にも同学年だ。当時11歳だった私たちに「人生の道」を示してくれた長嶋氏の偉業は、語り尽くせない。

 美祢は長嶋氏に倣い、中学から野球部に入り、高校でも野球を続けた。「人並み以上の練習をした」と振り返るが、残念ながら暴力事件による不祥事で野球部が解散。野球の道を断念した。それでも、長嶋氏の奮闘を事業経営の模範とし、人生の手本としてきた。「もう頑張る気力を失った。今年いっぱいで会長を退く」と、彼は漏らした。

 長嶋氏を神のように信奉してきたファンの多くは、10年後にはこの世を去るだろう。長嶋氏の偉大さを直接目撃した世代が、いつか誰もいなくなる。

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