トランプ政権が担う《帝国》終焉という歴史的使命~世界が依存してきたグローバル資本主義の実態~

京都精華大学 准教授 白井聡 氏

京都精華大学 准教授 白井聡 氏

 ドナルド・トランプの再選は、単なる政治的サイクルの繰り返しではなく、アメリカが長年担ってきた《帝国》というグローバル資本主義の構造からの離脱を象徴している。2000年代初頭にネグリ=ハートが提示した《帝国》論は、アメリカ単体の覇権ではなく、国家を超越する資本主義の運動体を描いたが、その中心には常にアメリカがいた。本稿では、米国の衰退を経済、軍事、道義的側面から総合的に検討し、トランプ再選がいかにしてこの《帝国》の「店仕舞い」を告げる徴候となったのかを論じる。

《帝国》とは何だったのか

 米トランプ政権のテーマ、あるいは歴史的使命と言い換えてもよい。それは、私の見るところ《帝国》の店仕舞いである。

 ここでいう《帝国》とは、古典的な意味での「帝国」ではなく、かつてアントニオ・ネグリ=マイケル・ハートが2000年刊行の著作により提起したような権力の構造だ。ネグリ=ハートは、グローバル化という現象における権力の仕組みを《帝国》と名づけたのだった。彼らは、「《帝国》とはつまりアメリカ合衆国のことだ」という解釈に対しては常に反対を表明していた。

 彼らの考えでは、グローバル化によって出現した権力の構造は、主権国家から実権を奪い、時代遅れの存在にしようとしているのだから、それは「国家」的であるよりもむしろ、地球全体に広がって覆い尽くそうとする資本の無定形な運動そのものとしてとらえられるべきものであった。《帝国》は唯一の中心をもつようなものではなく、それを特定の主権国家と同一視するのは誤りである、と。刊行当時、この議論は説得力をもつものとして受け入れられたし、今日の視点から振り返ってみても、このような定式化に妥当性はあったように思われる。

 ただし、その仕組みのなかで、国家が何も役割を果たさなくなるわけではない。ネグリ=ハートの『《帝国》』が世に問われたのは、01年の米同時多発テロ、そして対テロ戦争の前夜にあたる時期であった。つまり、「グローバル化が全世界を豊かで平和にする」という多幸感に満ちたドクマが約10年にわたって流布された後、このドグマに対するアンチテーゼが血みどろの一撃として突きつけられ、そこからいつ終わるとも知れない動乱の時代が始まる直前に出されたものだった。

 《帝国》論は、あたかもグローバル化が避けられない運命として永久に続くかのごとき空気が約10年にわたって流れた時代の最終時期の世界観をどこかで前提にしていると感じられる。それによる論の「行き過ぎ」があったとするならば、それは、主権国家権力の無効を宣言するその性急さにおいて、現れていた。東西対立の終焉とともに「唯一の超大国」となったアメリカは、《帝国》の絶対的な司令塔ではない(そのようなものは存在しない)にせよ、その最も重要な運営者ではあったはずだ。だからこそ、《帝国》への挑戦者たちは、攻撃対象をアメリカに定め、アメリカは戦争の泥沼に自ら突き進んでゆくこととなった。

アメリカの衰退と《帝国》の限界

 対テロ戦争の開始から約20年を経てのドナルド・トランプの大統領再選は、この資本のグローバルな拡張運動としての《帝国》の終焉、あるいはそれをもう終わらせたいというアメリカの有権者の願望を意味する。《帝国》を運営するという負荷にアメリカ自身が耐えられない、あるいは《帝国》の運営者としての旨味をアメリカの特権階級が独占し、庶民に対しては何の分け前もない、という状況に対する人々の激しい憤りを、それは表しているだろう。

 問題は、トランプ政権がはたしてこの仕事を首尾よくやり果せるのか、というところにあるはずだ。その展望について、現時点で確定的な結論を述べることはできない。本稿では、無理な予想をするのではなく、この店仕舞いの必然を現代アメリカの衰退の歴史的過程に位置づけることにより、課題の核心に迫りたいと思う。

 では、アメリカの衰退はいつ始まったのであろうか。短く取るならば、それは対テロ戦争、とりわけイラクに対する大義なき戦争にのめり込んで以来、と見える。対テロ戦争は、もともと巨大であった軍事費をさらに肥大化させてより一層の債務を積み重ねさせただけでなく、「アメリカの正義」に対する深刻な不信感を生じさせた。言い換えれば、アメリカは道義的なリーダーシップを失ったのである。対テロ戦争は、国際社会における道義的失墜に加え、国内的にもアメリカによる軍事行動に対する強い不信の念を生み出したことも、想像に難くない。

 そこに加えて、リーマン・ショック(08年)が襲った。この金融危機の本質は土地バブルである。危機の引き金になったサブプライムローンなるものは、地価が上がり続けるという前提においてのみ、成立するものであった。バブルはいつか弾けるものであり、ゆえに来るべきものがきた。住宅ローンが焦げ付き、金融システム全体を襲った。

社会の崩壊と絶望の蔓延

 一方には軍事的、道義的破綻、他方には経済的破綻という状況の下で、バラク・オバマが大統領になった。この政権交代は単なる政権の他党派への移動ではなく、アメリカ社会の人種間の融和、宿痾たる人種差別問題の解決を意味するものと受け止められた。

 しかし、オバマの統治が結局のところどのような評価を受けたのかは、続くトランプの大統領当選(16年、第1期)が物語っている。この選挙では、既成政党のアウトサイダー(トランプおよびバーニー・サンダース)の躍進が際立っていた。つまりは、オバマもアメリカの衰退を止めることができなかったし、既成政党全体にその能力なし、と判断されたのであった。トランプの最初の政権も、もちろん衰退を止めることはできなかった。にもかかわらず、彼が再び大統領に選出されたことが意味するのは、かくも強く既成政党・政治家が拒絶されていることの証左である。

 今日のアメリカの危機的状況を物語る数字は挙げるに事欠かない。「絶望死」、すなわち自殺、薬物過剰摂取、アルコール性肝臓疾患に起因する死亡数の1990年代末からの顕著な増大はその筆頭である。とくに低学歴層において、95年から20年の間に10万人あたり37人から137人へと激増しているという。また、2024年に行われた世論調査では、5年以内に内戦が起こる可能性があると答えた有権者が41%もいたという。衰退の先の社会の崩壊がリアルに感じられる段階にあることを、これらの数字は物語っている。

 経済に焦点を充てるならば、絶望死の急増こそアメリカ社会にとっての資本主義のグローバル化の直接的な帰結であるといえる。というのも、絶望死者の増加は低学歴層に集中しており、この層こそが、グローバル化による産業空洞化の影響に直撃され、安価な移民労働力との競争を強いられてきたからである。つまり、短期的に見た場合、ソ連崩壊後の「唯一の超大国」の表看板とは裏腹に、グローバル化の下で経済格差という意味での分断が広がり、その果ての社会の崩壊可能性までもが感じ取られるような国に一歩一歩なってきた、ということだ。

 かのリーマン・ショックにしても、公的な住宅政策が極めて貧弱であるなかで、土地バブルと金融上の複雑怪奇な手段によって低所得層に持ち家をもたせる―正確にいえば、持ち家を買うための借金をさせる―ようにする、という無理によって引き起こされたものであった。それは、資本による棄民であった。

相対的国力低下の長い過程

 だが衰退は、1990年代、グローバル化と同時にいきなり起きたわけではない。80年代の日米貿易摩擦が物語るように、米産業の多くの分野での競争力低下はすでに当時明白になっていた。アメリカの相対的国力が絶頂にあったのは、45年に第二次世界大戦が終わった瞬間であっただろう。ドイツや日本のような敗戦国はいうにおよばず、ヨーロッパの戦勝国であっても、多大の戦災を被り、生産力は低下していた。世界を二分するライバルとなったソ連邦にしても、大戦によって2,000万以上の人口を失い、産業の総合的水準は、アメリカと比べるべくもなかった。GDPの次元でいえば、世界の総GDPの約4分の1をアメリカが占めていた。

 それ以降の80年間はすべて、他の国々の発展によってアメリカの国力が相対化され、相対的に国力が衰退する過程であった。このことが最初に表面化したのは、71年のニクソン・ショック(=金ドル交換停止、変動相場制への移行)である。米ドルは世界で唯一、ゴールドによって価値を裏づけられた通貨という特権的な立場を失い、その価値が相対化―ゆえに日々変動する―されることになった。ニクソン・ショックによりブレトンウッズ体制が終焉し、管理通貨体制へと世界経済が移行したことの意味は、ここで詳述するには紙幅が足りない。そうなったことの原因のみを指摘するならば、それは次のように記述できる。

 すなわち、ブレトンウッズ体制成立時点では、アメリカの相対的国力は絶頂にあり、その地位にふさわしいものとして、米ドルが唯一、真の価値である金の直接的な代理通貨となった。その時米ドルは当然、基軸通貨にもなる。

 基軸通貨は、特有のジレンマを抱える。それは、世界で最も需要される通貨である以上、その需要を満たすべく豊富に発行されなければならない。

 だが、兌換紙幣は、原則的には、発行者=中央銀行の金準備による制約を超えて発行することはできない。まさにそのように発行量を制約されていることが、その通貨への信頼性の裏付けとなる。つまり、基軸通貨のジレンマとは、世界中の需要に応えるために豊富に発行されなければならないが、そのことが基軸通貨に対する信頼を揺るがせる、ということである。言い換えれば、このジレンマに耐えることができること、つまり、過剰に発行されているにもかかわらず、信頼され続けること―これが基軸通貨の基軸通貨たる所以なのである。

 ニクソン・ショックは、この矛盾が飽和に達したことを意味していた。一方では、戦災から立ち直った、日本を含むほかの先進工業国の産業競争力の上昇による、アメリカの経済力の相対的衰退に加え、ベトナム戦争による膨大な経済力の浪費により、米ドルへの金に基づく信頼をもはや維持できなくなったことを、アメリカ自身が告白する事態だったのである。

金融資本主義の暴走と収奪の構図

 1980年代になると、ロナルド・レーガンが登場し、「強いアメリカ」の復活を標榜する。減税を核としたレーガノミクスは、本来、労働者の勤労意欲を刺激することによりアメリカの産業競争力を復活させることを目指したものであった。しかし同時に、「強いアメリカの強いドル」を標榜したことは、大きな矛盾であった。製造業復活のためには、ドル安を志向しなければならなかったはずだからである。結果として、レーガンの経済政策は、製造業を復活させたのではなく、アメリカ経済の金融資本主義化を推し進めた。世界中の資金がアメリカに流れ込み、その資金がまた世界中の高成長の見込める地域へと貸し付けられる、という仕組みである。

 以後のアメリカ経済もまた、この仕組みの延長線上にある。覇権国は、最初工業力に基づく実体経済上での優位によって覇権国の地位に就くが、産業の競争力を徐々に低下させ、実体経済よりも金融的手段によって稼ぐようになる、というジョヴァンニ・アリギが『長い20世紀』において描いた通りの軌道をたどってゆく。

 その帰結として現れたのは、常識的に見れば、異様極まりない経済構造である。アメリカの経常収支の赤字と国家債務は膨らみ続けた。他方でアメリカは世界一の消費大国、その意味で世界一豊かな国であり、従って、一言でいえば、「他国民がつくったものを他国民から借りたカネで買いまくる」という状況がある。

 それは収奪である。かつ、モノをつくり、それを買うためのカネを貸している当事者(たとえば、代表的には中国や日本)も、収奪を知りながらこの構造への加担を簡単に止めることはできない。なぜなら、モノとカネを吸い込むブラックホールへの貢献を止めてしまえば、すなわち米国債の購入をやめるならば、米経済は崩壊し、この収奪の構造も崩壊するが、そのとき生産物を売るべき対象を失うことでこれらの国々の産業は崩壊し、借金のカタとして貯め込んだ米国債の価値も失われるからである。

 ゆえにこの異様な構造は、持続してきた。それが可能であったのも、ニクソン・ショック以降も、米ドルが基軸通貨であり続けたためである。世界中でドルへの需要がある限り、それが真の価値(=金)に裏づけられていなくとも、ドルは基軸通貨の地位を守り得た。

 本稿では詳述できないが、ドル需要を維持するためにアメリカが打った手が、石油取引における決済手段のドルによる独占であり、これがペトロダラー体制と呼ばれる。総じていえば、長期の衰退局面を経てきたアメリカ経済は、金融資本主義のマネーゲームという実体経済から遊離した次元で利益を上げる一方で、石油取引のドル独占、ならびにそれを全世界に強制する軍事力を実体としてそれを支えてきた、ということである。

アメリカの意思表示《帝国》からの撤退

 以上に略述してきた構造が、《帝国》の核心を成すものであったと見るのが、今日の視点からみれば、最も妥当性が高いのではないか、と筆者は考える。それは、主権国家の枠組みを超えて地球大に広がったシステムであったのと同時に、アメリカ合衆国という主権国家が決定的に重要な地位を占めるシステムでもあった。

 トランプのアメリカが意味しているのは、アメリカがそこから多大な利益を得てきたはずのシステムの運営から、自ら手を引こうとしている、という意思表示である。アメリカは、このシステムから途方もない受益をしてきたにもかかわらず、国内の矛盾が臨界点に達してしまった。巨大な富を世界中から集めながら、アメリカはそれを適切に分配する能力に欠けていたと言わざるを得ない。このことが、「常識外れ」の人物=トランプが二度にわたって大統領の座に押し上げられたことの端的な理由である。

 トランプは、「忘れられた人々」(典型的にはラストベルトの労働者階級)の救世主として自らを打ち出すことに成功した。救済手段は製造業の復興であり、この目標のために当座は、不法移民の追放と関税政策が打たれている。だが、その先行きは不透明だ。

 アメリカの1つ前の覇権国、イギリスがたどった道、すなわち世界一の工業国から産業の空洞化を経て、それを立て直せないまま現在に至る軌道を見れば明らかなように、一度産業を空洞化させて金融依存の経済構造に陥った国が製造業の再生を成功させた例は見当たらない。さらにいえば、このプロジェクトは、現在に比べれば産業の空洞化の段階がはるかに軽度であった80年代にレーガンが試みて失敗したものにほかならない。

不可逆な変化と奇妙な会話

 トランプ政権の再成立は今日のアメリカの衰退の徴であるとは、すでに多くの人々によって指摘され、公知の事実となっているといえる。トランプが、一度大統領の座から滑り落ち、而して後にもう一度大統領の座に就くことになったという事実は、後にカール・マルクスがこれに言及しつつ強烈な皮肉を付け加えることによって有名になったヘーゲルの格言の正しさを、またしても証明しているかのようだ。ヘーゲルは「重大な人物や出来事は歴史上二度現れる」(『歴史哲学講義』)と述べ、マルクスはそこに「一度目は悲劇として、二度目は茶番として」と付け加えた(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)。

 ヘーゲルが指摘していたのは、一種の心理学的「否認」のメカニズムであった。すなわち、世界の根本的変化を告げるような出来事や人物が出現すると、その変化が重大であるがゆえにかえって、人々はそれをやり過ごそうとしてしまう。「単に馬鹿げている」とか「偶然にすぎない」といった解釈を与えて、その重大性を過小評価しようとする。それは、既存の世界に対応した自らの世界観と現実世界が乖離することによって生じる認知的不協和の不快を、人は避けたいからである。

 だが、生じている変化が本質的である場合、その変化の徴である人物が退場したり―政治家の場合、命を奪われることもある―出来事が忘れられてしまっても、もう一度似たような人物や出来事が現れざるを得ない。なぜなら、そうした人物や出来事は、本質的な変化がもたらしている必然的なものであるからだ。こうして、二度目を経験することにより、人々は現実を、それがいかに不快なものであっても、認めざるを得なくなる。

 ドナルド・トランプの場合、トランプを代替するトランプ的な人物が現れるのではなく、トランプ自身が再び大統領の座を摑むことによって、ヘーゲルの格言を証明した。すべてが不透明であるなかでもはっきりしているのは、「トランプ革命」の必然性と不可逆性である。

 とはいえ、いまのところ、関税をめぐる交渉で交わされている会話は実に奇妙なものだ。「他人がつくったものを他人から借りたカネで浪費し続けるような生き方は不健全だと思うので、私らもほかの人たちと同じように汗水たらして働いて生きていきたいと思う」というアメリカに対し、他の国々はこぞって、「いやいやとんでもない、どうかいままで通りにやってください!」と言っている。しかし、これほど奇妙な会話は早晩終わらざるを得ない。代わってどんな言葉が必要なのか。それを探す苦闘がいま、続いているのである。


<PROFILE>
白井聡
(しらい・さとし)
政治学、社会思想研究者。東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。一橋大学大学院社会学研究科総合社会科学専攻博士後期課程単位修得退学。博士(社会学)。主にロシア革命の指導者であるレーニンの政治思想をテーマとした研究を手がけてきたが、3.11を起点に日本現代史を論じた「永続敗戦論—戦後日本の核心」(太田出版)により、第4回いける本大賞、第35回石橋湛山賞、第12回角川財団学芸賞を受賞。著書に「国体論」(集英社新書、2018年)、「武器としての『資本論』」(東洋経済新報社、2020年)、「未完のレーニン」(講談社学術文庫、2021年)、「ニッポンの正体2025: 世界の二極化と戦争の時代」(河出書房新社、2025年)

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