新しい時代の始まり(後)移民問題を考える

福岡大学名誉教授 大嶋仁 氏

 日本の移民に関する情報をAIに求めると、模範解答がかえってくる。労働人口が不足しているので移民は必要だが、政府は「移民」という言葉を嫌い、「でかせぎ労働者」と見なしたがっていると。

 つまり、海外からの移住者を必要な時だけ受け入れ、要らなくなったら「さよなら」したいということだ。これでは日本は豊かにならない。社会や文化の観点からも、大きなリフォームが必要なときなのだ。

 移民問題については専門家に意見を求めるのが良いと思い、私自身運営に加わっている佐賀県唐津市の民間塾「からつ塾」に、講師として永吉希久子氏を招いたことがある。氏は数々の統計資料を用いて日本社会が「多文化共生」に対して十分開かれていないことを指摘し、移民する側もそれがわかっていて、日本が移民先としてあまり人気がないことまで教えてくれた。

 さらに氏は、企業側が移民労働者を欲しているのに、省庁側がこれに対して消極的な姿勢を保持していることにも触れた。実業界と行政とのあいだには隔たりがあり、このまま移民の数が増えれば社会混乱が起こること必至であろうというのだ。法制化が遅れれば苦労するのは移民である。このままでよいはずがない。

 日本に移住して労働する人々についての研究で知られるのは、グラシア・リュウ=ファラー氏である。氏によれば、日本が「エスノ・ナショナリスト国家」であるところがネックになっている。「エスノ・ナショナリズム」とは自民族中心主義のことで、「よそ者」を排除するイデオロギーなのである。

 実際にはすでに「移民国家」であり、何百万人もの移民がこの社会で生活しており、人口学的、社会的、文化的景観も変容しているのに、イデオロギーだけが変わらない。そのせいで移民受け入れのスピードが鈍り、制度的にも、文化的にも、増加する移民を受け入れる準備ができていないのが日本の実情だというのだ。

 氏はさらに、このイデオロギーは移民とその子どもたちに帰属意識やアイデンティティーの葛藤を強いているともいう。日本はすでに変容期にあるのだから、今一度日本が何でできているのか、日本人らしさとは何なのか、それを再考する必要があるというのだ。的確な助言であると思う。

 先の永吉氏に話を戻すと、あるとき氏に「日本社会の構造を分析しない限り、移民の是非を論じられないのではないか」と問うたことがある。氏はこれに対して回答をくれなかったが、今にしてその理由がわかる。私の質問は、前提からして間違っていたのだ。

 そもそも私は「日本社会の構造」なるものが厳然と存在するという前提に立っていた。そんなものは、かつてはあったかもしれないが、国際的流動の現代世界にあってはもはや意味をもたない。私は日本文化に固執していたように、社会構造にも固執していた。そこが間違っていたのである。

 もはや「社会構造」などと言っている場合ではないのだろう。そのような構造があると信じること自体、リュウ=ファラー氏のいうエスニック・イデオロギーの産物なのかもしれない。もっと物事は流動的に考えねばならない。日本人のアイデンティティーを、あたかも実体であるかのように捉えること自体、誤りなのだろう。

移民社会 イメージ

    ところでこの夏、家族とともに阿蘇に行った。山麓のホテルに泊まったのだが、驚いたことにそこの従業員のほとんどがネパール人だった。フロントでのチェックインの対応も、ネパール人の職員がした。ときどき聞き取りにくい部分もあったが、概して仕事をていねいにこなしていた。客への対応がとくによかった。

 「支配人は日本人ですか?」と聞くと、「そうだ」という。そこで支配人らしき人が出てきたので、なぜネパール人を多く雇用しているのか聞いてみた。「仕事熱心で、優しくて、礼儀正しいからです」。これが答えだった。これからの日本はこうなるのか、と一瞬未来像を思い浮かべた。

 「この近くにレストランはありますか?」とフロントのもう1人のネパール人に尋ねると、「ありますよ、ナマステというインド料理店が」と答えた。そこでそのレストランに行ってみると、「ナマステ7」と看板に書いてある。つまり、チェーン店なのだ。

 調べると、熊本県だけでも「ナマステ」がいくつもある。しかも、どれもネパール人のインド料理店であるようだ。

 私の住む唐津にも、ネパールからきた若者がいる。ある夕方たまたま神社の境内で出会ったのだが、唐津の会社でエンジニアとして働いていると言っていた。しかし、どうして神社なのか? そこで思い出したのが、かつてネパールで仕事をしていたある日本人の言葉である。「ネパール人は聖なる場所を尊ぶのです」。

 海外からの移住者が多くなれば「犯罪が増える」と思う人は多いようだ。しかし、移住者たちが日本社会にどれほど貢献しているか、それを見なくてはなるまい。日本は変わりつつある。その変化は悪い方向への変化とは限らない。新しい時代は始まっているのだ。

(了)


<PROFILE>
大嶋仁
(おおしま・ひとし)
1948年生まれ。福岡大学名誉教授。からつ塾運営委員。東京大学で倫理学、同大学院で比較文学比較文化を修め、静岡大学、カトリック大学・ブエノス=アイレス大学(ペルー)、パリ国立東洋言語文化研究所を経て、95年から2015年まで福岡大学にて比較文学を講じた。最近の関心は科学と文学の関係、および日本文化論。著書に『科学と詩の架橋』(石風社)、『生きた言語とは何か』(弦書房)、『日本文化は絶滅するのか』(新潮新書)、『森を見よ、そして木を』(弦書房)などがある。

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