福岡大学名誉教授 大嶋仁 氏
私の住む市には交通が麻痺する交差点がいくつもある。タクシーの運転手に言わせれば、「地獄」だそうだ。原因は交通事情に信号機能が対応していないことにある。つまり、機能不全だ。
市役所に相談に行くと、警察の管轄だから「警察署へ行け」という。そこで警察署へ行くと、県の問題だから「県警へ行け」という。そんな馬鹿な。市の問題なのに、どうして県庁所在地まで出向かなくてはならないのだ。
自治体行政が機能不全であることを裏書きする例を、もう1つ挙げておく。
私の家の近くにJRの駅がある。駅前には小さな広場があり、そこに立派なクスの木が数本植わっている。その木々にムクドリがあつまって、日の出と日の入り時にワイワイ騒ぐ。鳥の生活とはいえ、否、鳥であればこそ、清々しい合唱となっている。
ところがあるとき造園業者がやってきて、その数本の木を根こそぎ伐採した。やがて別の業者がきて、木のあったところを舗装して有料駐車場にした。もはやムクドリの合唱を聞くことはできない。木の下のベンチで読書することもかなわない。おまけに、出来上がった駐車場は、今になってもほとんど利用者がいない。
市役所にまた行くと、駅前の広場はJRの管轄だという。これだ、これが原因なのだ。すべてが細分化され、全体を統括するシステムがないのだ。
地方行政だけの問題ではない、国全体がそうなのだろう。日本全国おなじ欠陥があちこちで見えるにちがいない。国全体が、とくに行政において機能不全なのだ。
そういうところから、日本には全体を1つのシステムとしてみる発想がないのではないかと思ってしまう。そしてそれを裏づける証拠を探すと、いくつも出てくる。
たとえば中国から摂取した漢字。そこには何らシステム的な理解がない。音読み1つをとっても、同じ漢字に幾通りもの読みがある。漢音、呉音、唐音と。漢字の本国では、1つの漢字に一通りの読みしかないのだ。
それでも日本が何とかやってきたのはどうしてか?戦後日本は科学技術とともに、経済的にも大きく発展してきたではないか。
この原因を調べてみると、日本人もシステム論的発想を身につけていることがわかる。その典型例がトヨタなのである。
トヨタの成功は「インダストリアル・エンジニアリング」(略称IE)の考え方と手法を深く根づかせたことによるといわれる。IEとは「客観的な証拠と科学的な分析に基づき、作業工程のムリ、ムダ、ムラを徹底的に排除し、より効率的な生産プロセスを実現する手法」を意味するもので、システム論の極致なのである。
日本企業で世界的に成功しているどの企業も、おそらくこの方式を採用している。「日本人にシステム論的発想はない」などとは簡単にいえないのである。
正直なところ、こういう私も日本の大企業がIEを基礎としているなど、つい最近まで知らなかった。それでもここに書くのは、この機に多くの人にそれを知ってもらいたいからだ。
IE発祥の地はアメリカである。トヨタに限らず戦後日本を支えてきた大企業は、いずれもアメリカから学んだのだ。戦後日本は戦勝国アメリカの長所を貪欲に吸収するところから始まった、その一例である。
では、IEは生産業にしか応用できないのか?
科学技術辞典で引くと、「製造業だけでなく、サービス業、物流、日常生活など、幅広い分野で応用されている」と書いてある。地方自治体もこれを採用できるはずなのだ。
「大きなシステム変革は予算措置が大変だ」と自治体はいう。「何をいうのだ、そのために税金を払っているではないか」と言っても聞き入れようとしない。
本当は金ではなく発想の問題なのに、システム論に慣れていない頭には、そのメリットがわからない。これも「教育のなせるわざ」というべきか。
今から150年前、福澤諭吉は国家を「株式会社」にたとえ、税金を払う国民は「株主」だと主張した(『学問のすゝめ』)。そんな昔にそんなことを言った人がいたのかと驚くが、彼にすれば幕藩システムを企業国家システムへと転換させたかったのだ。
彼がつくった慶應義塾も同じ発想から生まれた。慶應は日本最初の定額授業料制度による学校なのだ。「タダほど高いものはない」というが、有料であればこそ質が保てるということがある。医療が無料の超福祉国家が必ずしも質の高い医療を保てるとは限らない。
さて、福澤諭吉が現在の地方自治体の機能不全を見たら、どう思うだろう。何事にも受動的になっている市民に向かって、こう言ったのではないか。
「税金を払っている君たちこそ自治体経営の主なのだから、その代行をしている行政者にもっと厳しい注文をつけるべきではないのか」
そういう声が聞こえても、既存システムに慣れきっている私たちは、おそらく聞こえないふりをする。「どうせ聞いてはくれないだろう」と決め込んでいる。これでは福澤先生に申し訳ない。慶應の出身者でなくとも、そう思ってしまう。
(つづく)