「孫育て」祖父母は救世主になれるか(後)

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 今を生きるすべての親と祖父母たちが、気づく必要がある。子どもは甘やかす時代になった。もちろん、いうことを何でも聞いてやるという意味ではない。子どもの成長のために、家庭で何ができるだろうか。家族の立ち位置を、私が尊敬する黒川伊保子さんの著書から学んでみたい。今回参照したのは“トリセツ”シリーズ。「孫のトリセツ」「娘のトリセツ」「息子のトリセツ」の3点だ。

あのころの子ども達

 つまるところ、父と母が仲良くしていることなんだと思う。そのために精神衛生的にも両親の自立は必須だし、思考も大切だけど、何より基本的な生活ができているかも重要。

 生まれて1年も自立自走できない動物なんて、人類だけだ。成熟して生植が可能になり、縄張りを守り、餌を安定して獲得できるようになるまで、そこからまだ十数年はかかる。そんな子育てを親たちだけでこなすには、人生コスト(時間、手間、意識、金)がかかり過ぎるし、リスクが高過ぎる。人類の子育ては、大昔からコミュニティのなかで行われてきた。いわゆる核家族のように、子育ての日々の手間のすべてが親の手に委ねられるようになったのは、近年になってからのことである。

 『キセキ -あの日のソビト-』(2017年公開)という映画を見られたことがあるだろうか。日本の男性4人組ボーカルグループGReeeeNの名曲「キセキ」の誕生秘話が描かれている。彼らは今でも歯科医師とアーティストを両立していて、歯科医師の本業に支障を出さないようにするため、顔は非公表になっている。4人の年代はポスト団塊ジュニア世代(1980年前後生まれ)だから、およそ筆者と同じくらいの世代。そして、その彼らの生い立ちを知るうえでの時代背景が懐かしい。思わず自分の学生時代と重なり、郷愁を感じずにはいられないものだった。

 …喧嘩をして帰ってくると父親に馬鹿もんが!と殴られる。自身の信念にそぐわない息子の行動に、殴る蹴るで鉄槌を下す。「音楽なんてくだらないことをいつまでやっているんだ」「絵描きで食っていくことはできないからやめたほうが良い」「人間は好きなことばかりしていると馬鹿になる」…親の価値観が容赦なく子どもに襲いかかる。昭和がそんな時代だったことを思い出した。

あの頃はそんなもんだと思っていた unsplash
あの頃はそんなもんだと思っていた unsplash

    優しそうな母親と厳格な父親、郊外に住むごく普通の家庭のように見えた。そのような典型的な核家族。医師であった父親は本音を漏らす「お前には世の中に必要とされる仕事に就いてほしかった」と。「お前らの音楽は所詮、医者には勝てない」と言われた主人公の息子は、「自分は心の医者になってみせる」と奮起し、歯科医師と音楽という二足の草鞋を履き、見事にそのスタイルを確立したのだ(ちなみタイトルに含まれる「ソビト」は、GReeeeNによる造語。この言葉は「素人」または「空人」と書かれ、「自由に新しいことに挑戦していく人」を意味しているようだ)。

“自分”を生きているか

 名を成す人は、やはりどのような環境に置かれたとしても頭角を現すものなんだろうと感心するところだが、すべての人がなかなかそのように才能と現実をうまく結びつけられるものではない。

 まずはこの世代の背景を知り、自立を進めるところからたしかめておきたい。学生時代、親や学校の規範で「こうあるべき」と縛られていたことはないだろうか。会社では、親や学校の代わりに社会に提示される「こうあるべき」に縛られる。昭和生まれ世代、とくにロスジェネ世代(1970~84年頃生まれ)は、現在の個人主義の風潮より「共同体の枠からはみ出さないこと」に重きを置かれていた時代なので、少なからずそういった感覚に在った人も少なくないと思う。GReeeeNの背景には屈強な父親の存在が描かれていたが、このような一方的な価値観が超えられない山としてあったのも、少なからず人の進む道を狭めていたように思える(しかし、その逆境が人を奮起させるサクセスストーリーがここにはあった)。

 若いころからの心や思考のクセというのは、大人になってからも大きく影響する。たとえば何かを選択するときに、「自分が何をしたいか?」よりも、「周りにどう思われるか?」といった世間体を、知らず知らずのうちに優先させている。自分の人生を生きているのに、どこか他人や社会のために生きているような感覚。言い換えれば、自分の人生に責任をもちきれていなかったともいえる。

 自分の人生や選択に責任をもち、自分が主人公であるという主体性をもつこと。そんな感覚のことを「自己所有感」と呼ぶ。「自分をもっている」「自分軸で生きている」「私の人生を生きている」という感覚。この自己所有感がある人生のほうが、他人軸で生きるよりずっと幸福度が高いということは想像できるだろう。自分の足で立って、自分のことを自分で引き受けて、自分で自分を満足させることができる生き方だ。自分を真ん中に置いて自分のために生きることで、結果的に誰かのためになることがある。依存的な人間関係のなかにいるより、自分の足で立っている人のほうが誰かの役に立てる。そして、そういった人たちが集まる共同体は健全で自己完結していて、何より心地良いものになる。あなたは今、“自分”を生きている実感があるだろうか。

自己所有感の育み方

 では、どうすれば自己所有感を育むことができるのだろう?

 まずは「遠慮」を外そう。「ノー」と言ってみよう。人間関係や仕事で他人の期待に応えようとし過ぎると、自分を犠牲にしてしまうことがある。本音を押し殺して生きていると、だんだん自分がわからなくなってくる。何がしたいのか、どこに向かいたいのかを見失ってしまう。相手のリクエストが自分にとって本当に大切かどうかを考え、自分の心に正直になる。私の師匠は言っていた。“他人には噓をついていいが、自分には嘘をついてはいけない”と。「本当はこう思っている」、それを認めるところから人生は動き出す。「自分の幸せは私がつくる」という意識が、自己所有感を強化させる。

「遠慮」を外してみよう photoAC
「遠慮」を外してみよう photoAC

    自己理解を深めることも、大きな鍵だ。自分がどんな人間なのか分析し、自分が何者であるかを具体的に理解するように努める。私たちには「弱み」と「強み」があって、それがどういうときにどんな出方をするのかを知っているかどうかが、重要な視点になる。自分の人生を自分でデザインすることは簡単なことではないが、少しの意識の変化から始められる。自分が何を求めどう生きたいのかを問いかけ、自分の気持ちに正直に向き合ってみる。そのプロセスが自己所有感を高め、あなたをより幸福に導いてくれるはずだ。教条主義の罠にはまってはいけない(教条主義:世間の理想を体現する生き方のこと)。「好きでたまらないものを探し出せ!自分が本当になりたいものは、心と直感が知っている」と鼓舞したのは、スティーブ・ジョブズの言葉。 

大人の自立も、応援する

 「素敵な大人」は、男であろうと女であろうと「遠く(客観)」と「近く(主観)」をバランス良く使い、責任感のある果敢な戦士でありながら、愛の言葉や慈しみの所作を惜しまない。それでも男子と女子では、生まれたての脳のデフォルトが違うのだという。とっさに「遠く」を選択するのが男性脳、とっさに「近く」を選択するのが女性脳。そのように初期設定されているのだと。

「遠く」を選択する男性脳、「近く」を選択する女性脳 unsplash
「遠く」を選択する男性脳、
「近く」を選択する女性脳 unsplash

    「空間認知優先型」とは、自然に“遠く”まで視線を走らせ、空間の距離を測ったり、ものの構造を認知する神経回路を優先する脳の使い方。「コミュニケーション優先型」とは、自然に“近く”に集中して、目の前の人の表情や所作に反応する神経回路を優先する脳の使い方。人はどちらの使い方もできるが、とっさにどちらかを優先するかは、あらかじめ決められている。誰にも利き手があるように、誰の脳にも、「利き回路」があるのだ。すなわち「遠くの目標物に照準を合わせる」仕様と、「近くの愛しい者から意識をそらさない」仕様。男性脳は狩り仕様に、女性脳は子育て仕様に初期設定されているのだ。そのほうが生存可能性を上げ、より多くの遺伝子を残せるから。“遠く”と“近く”は同時に見られない。近くも遠くも見ようとすると、全体をぼんやり見るしかなくなる。

 多くの男性は「遠くを俯瞰して全体を見極め、ものの構造を察知する」才能(客観性)をもって生まれ、やがて自分の思い(主観)に出逢って、愛する人を守り抜く大人の男になっていく。つまり大人になるとは、男女ともに主観も客観も手に入れるということだ。逆に男性脳は、おしゃべり仕様にはできていない。寡黙に荒野や森を行き、風や水の音を聞き分け、獣の気配を聞き逃さないように進化してきているのだから。女性は、先の見えない事態に強いといわれる。阪神淡路大震災のときも、東日本大震災のときも、その日のうちに精力的に動き出したのは女性たちだった。目の前の状況に瞬時に適応し、行動できる。おしゃべりは元気を与える。街が壊滅しても「とにかく今日の夕飯」から立ち上がれるのが、女性脳のすばらしいところ。狩り仕様の男性脳と、子育て仕様の女性脳は、頑張りどころがまったく違うというわけだ。

 vol.83(25年4月末発刊)掲載の「自律を獲り、自立できるか」では、子どもの自立を挙げたが、子どもだけでなく実は大人も、適正な自立を探さなくてはならないところにある。正確にはそのくらい不安定な世界に立たされていて、軌道修正が必要な、我々も新しい世界の前夜にいるということなのだろう。

 人類の子育ては、生殖本能に翻弄されない人の手助けがあって、より良く機能していることも忘れずにいたい。女性の社会進出が進んだ現代、血縁に限らず、子育てに人生コストを奪われていない人たちの存在と援助は、生態系の存続に大きく寄与しているのは間違いない。子どもに人生コストをかけない人たちが、自分の仕事や趣味にそれを惜しみなく使ってくれることが、社会全体を活性化していることも見逃せない。もうすぐアラフィフに到達するポスト団塊ジュニアの筆者だが、子どもを育てながらもうすぐ20年におよぶ。もう初老の入口に立っているが、それでも人生の選択や家族との会話、社会のことなど、まるで若者のように迷うことがある。いい歳になってもまだこんなことで…と自分自身を問いただすこともあるが、でも裏を返せばそれは伝統を守る立場にも、革新的なことに挑戦する立場にも、どちらにもなれるということだと信じている(人生は100年時代。まだ半分もあるのかと思うと、初老の精神にも力がみなぎってくる)。

<孫のトリセツ>

 今を生きるすべての親と祖父母たちが気づく必要がある。子どもは甘やかす時代になった。もちろん、いうことを何でも聞いてやるという意味ではない。

 言った気持ちを受け止めること。言った通りにするかどうかは、また別の話。そろそろ我々団塊ジュニア世代が、祖父母のポジションに上がってくる時代になりつつあります。低迷した日本経済と、迷走している進むべき道。日本の夜明けが見られるとしたら、もしかすると団塊ジュニア世代が祖父母になったころかもしれません。今起きているさまざまな挑戦と革命が実を結び、その孫たちが回している社会が日常として定着しているころ、まだ見ぬ彼らが送っている暮らしのなかに、それらが見られるような気がします。2025年は戦後80年の節目でしたから、戦後100年くらい経ったころ、ちょうど今から20年後くらいでしょうか。成熟した日本社会でその礎となるべく、私たちの今の経験と教育が生かされてくるのは。

孫の世代の助走になりますように unsplash
孫の世代の助走になりますように unsplash

    今この記事を読んでいるあなたが、おじいさん(おばあさん)になった20~30年後、その立場へと立たれ、その情態を嚙み締められているのかもしれません。そのころの日本、今どんな感じになっていますか?これからの未来を担う孫たちを、いい感じに育てるのに、私たちロスジェネ世代の力が下支えできるということなら、それこそ無償の愛を注いであげたいもの。おじいちゃん、おばあちゃん、あなたがたが今、伴走して良き理解者になってくれることで、孫の世代の助走になります。次世代の人たちに明るく照らされる希望が在るかもしれない。あなたがたの叡智をどうか余すことなく、後世のため、どうか日本の未来のために使ってください。よろしく頼みます。

(了)


松岡 秀樹 氏<プロフィール>
松岡秀樹
(まつおか・ひでき)
インテリアデザイナー/ディレクター
1978年、山口県生まれ。大学の建築学科を卒業後、店舗設計・商品開発・ブランディングを通して商業デザインを学ぶ。大手内装設計施工会社で全国の商業施設の店舗デザインを手がけ、現在は住空間デザインを中心に福岡市で活動中。メインテーマは「教育」「デザイン」「ビジネス」。21年12月には丹青社が主催する「次世代アイデアコンテスト2021」で最優秀賞を受賞した。

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