竹原信一緊急寄稿(1)見えない支配と沈黙の文明~戦後日本における知性の崩壊構造
阿久根市議会議員 竹原信一
中央政界が新たな転換点を迎え、政治構造が大きく揺らいでいる。そんななか、かつて鹿児島県阿久根市政を刷新し、地方から政治のあり方を問い続けた竹原信一氏から緊急寄稿を頂いた。
日本の民主主義の在り方に大きな疑問符を投げかけてきた異色の元市長が、中央政界の激変に直面した日本国民に向けたメッセージを、連載してお届けする。
Ⅰ 無能の秩序としての行政
日本の行政は、無能を前提とした秩序の上に成り立っている。そこでは有能さよりも従順さが重んじられ、誠実な者よりも空気を読む者が重用される。無能な体制のなかでは、無能こそが安定の条件である。能力のある者は異物として排除され、「神輿は軽い方が良い」という言葉が、政治文化の深層心理として受け入れられてきた。行政の無能は、単なる怠惰ではない。それは、日常権力のかたちをとった暴力である。効率や成果よりも、形式と手続きの維持こそが目的化し、不効率と浪費が制度そのものの性質となっている。腐敗は道徳の堕落ではなく、能力の欠如を守るための防衛機構である。
Ⅱ 腐敗の温存装置としての選挙
選挙とは、民主主義の儀式であるはずだった。しかし現実には、腐敗の再生産装置として働いている。有能な者は体制を揺るがす危険をはらみ、無能な者ほど「扱いやすく安全」な存在として選ばれる。選ばれるのは理想ではなく、調和。理念ではなく、無風。こうして政治は、変化を恐れる人々の心理によって安定し、「選ばれる無能」が「支える無知」によって正当化される。もはや選挙は、民意を表す制度ではなく、民意の不在を装うための演出になっている。
Ⅲ 大衆の無責任と批判の拒絶
腐敗の根本構造を指摘することは、支配者を批判することではなく、大衆の怠惰と無責任を暴くことである。ゆえに、その言葉は必ず憎まれる。人々は正当な批判に耐えられない。彼らは、腐敗を憎むよりも、腐敗のなかに安定を見いだす。誰もが「自分だけは加害者ではない」と信じ、その無自覚が、国家の病巣を覆い隠している。真実を語る者は常に孤立する。なぜなら、彼が暴こうとしているのは敵ではなく、人間そのものの惰性だからである。
Ⅳ 日本社会の自己崩壊構造
日本社会は、静かに自壊するように仕組まれている。権力に従順であることを誇り、自ら考えないことを「協調」と呼ぶ。怠惰が知恵に偽装され、空気が倫理に置き換えられる。その結果、社会は自らの思考を停止し、「沈黙」を美徳とする文明へと変質した。笑いは批判の形式ではなく、逃避の手段となり、知性は風刺を失って娯楽へと堕ちた。笑いが堕落したとき、文化は死ぬ。その死を人々は気づかぬまま、日常の安心のなかに生きている。
Ⅴ 人間の誤定義
この社会の最も深い誤りは、「人は自己利益のためにしか動かない」という定義を真実と信じたことだ。人は本来、共感と誠実を軸に生きる存在である。しかし、戦後の経済原理と教育体制は、「損得」を理性とし、「競争」を進歩と呼ぶことで、人間を計算する動物につくり替えてしまった。その結果、信頼は弱さに見え、誠実は愚かさと見なされるようになった。人間不信が制度化され、「利己的であること」が社会の前提として埋め込まれた。
Ⅵ 戦後日本における見えない支配構造
この精神的変質は、偶然ではない。それは戦後、米軍の占領政策によって形成された情報支配構造の延長線上にある。GHQのプレスコードにより、日本人は「何を語り、何を沈黙するか」を定義された。その後も、米国の文化・広告・メディア産業が、人々の価値観を“自由”の名のもとに方向づけた。支配は武力ではなく、思考の枠組みを決めることで行われた。何を疑い、何を疑わないか――その線を引くことこそが、支配の本質である。そして日本人は、その枠のなかで自らを「自由」と呼ぶようになった。
Ⅶ 結語:思想的独立のために
日本の崩壊は、経済や人口の問題ではない。それは、人間をどう定義するかという思想の敗北である。利己的な人間観の上に築かれた制度は、必ず腐敗し、必ず人間を空洞化させる。私たちが取り戻すべきは、制度ではなく、人間の定義そのものである。自由とは、疑うことを恐れない精神であり、知性とは、孤立を恐れずに真実を見る力である。その力を取り戻すことこそが、この沈黙の文明を終わらせる唯一の道である。
Ⅷ 誇りを壊すという愛
日本社会の病巣を語ることは、日本人の誇りを壊すことに等しい。だが、それは敵意からではなく、愛の痛みとして語られなければならない。私たちは、長いあいだ「立派な国」「勤勉な民族」として自らを誇示してきた。しかし、その誇りの多くは、敗戦と占領を経てつくられた借り物の自画像にすぎない。誇りとは、過去を飾るものではない。誇りとは、真実を見つめる勇気のことだ。そして今の日本には、その勇気が失われている。恥を見ない社会に成長はなく、恥を受け止めたときにこそ誇りは再び生まれる。この国を批判することは、この国を見捨てることではない。むしろ、それはまだ希望を信じている者の行為である。沈黙を破る者、腐敗を指摘する者、嘲笑され、孤立しながらも真実を語る者。その存在こそが、国家の良心であり、社会の免疫として働く最後の灯である。
Ⅸ 忠誠と遵法という名の欺瞞(ぎまん)
「忠誠心」や「遵法精神」という言葉は、長いあいだ日本社会の“道徳的支柱”として語られてきた。だが、その言葉の輝きは、すでに空洞化している。忠誠は誠実ではなく盲従へと転化し、遵法は理念を失って形式の宗教となった。欺瞞の言葉が支配する社会では、正義は沈黙し、勇気は裏切りと呼ばれる。真の忠誠とは嘘を拒む勇気であり、真の遵法とは法を人間の尊厳に結びつける精神である。従順を美徳とする時代を終わらせ、秩序を恐れではなく誠実の上に築くこと。それが、この国を再び人間の手に戻すための革命である。
Ⅹ 文明という名の病―ガンジーとの対話
現代日本を覆う精神の病は、ガンジーが百年前に見抜いた「文明の欺瞞」と同じ構造をもっている。彼が『ヒンド・スワラージ』で告発したのは、西欧近代の進歩信仰が人間を自由にするどころか、欲望と恐れの奴隷に変えてしまうという現実だった。そして今日の日本もまた、「秩序」「効率」「発展」という名のもとに、同じ病に侵されている。文明は便利さを与えるが、人間の魂を弱らせるなら、それはもはや文明ではない。ガンジーが説いた魂の自治は、ここで求める思想的独立と同じ地平にある。それは過去への回帰ではなく、人間の本質を取り戻すための未来への抵抗である。
(つづく)