竹原信一緊急寄稿(4)発明空間論 見ること・観察の哲学としての深化

阿久根市議会議員 竹原信一

 中央政界が新たな転換点を迎え、政治構造が大きく揺らいでいる。そんななか、かつて鹿児島県阿久根市政を刷新し、地方から政治のあり方を問い続けた竹原信一氏から緊急寄稿を頂いた。

 日本の民主主義の在り方に大きな疑問符を投げかけてきた異色の元市長が、中央政界の激変に直面した日本国民に向けたメッセージを、連載してお届けする。

序 章 見抜くということ
第一章 政治 ― 見る仕組みの政治
第二章 教育 ― 知ることの暴力
第三章 宗教 ― 信じない信仰
第四章 芸術 ― 世界が自らを見ようとするとき
補 章 発明 ― 再覚醒の哲学
結 語 形式のなかにいて、形式を見抜く

序章 見抜くということ

 人は、新しいものを求めてきた。新しい技術、新しい制度、新しい思想。だが「新しい」とは何だろう。

 発明とは、空白から生まれるものではない。それは、すでにそこにあったものを見抜く行為だ。見えていながら見えなかった関係。聞こえていながら、意味を与えられなかった声。それらが、ある瞬間に「見える」ようになる。そのとき初めて、人は発明者となる。

 発明とは、世界を再び見ることである。つまり、創造ではなく観察。行為ではなく、気づき。意志ではなく、静けさ。
 形式に生きる者は、安心を求める。安心のために言葉を固定し、理解を急ぐ。だが、その理解こそが世界を曇らせる。単純化し、分類し、名前を与えた瞬間に、ものは「生きること」をやめてしまう。
 だから、発明は「理解の外」でしか起こらない。思考を止めたわけではない。思考の前に、沈黙している。

 見るとは、支配しないこと。見抜くとは、解釈をやめること。それは人間にとって最も難しい行為だ。なぜなら、人は「わかりたい」と願うことで存在を確認しているからだ。

 しかし、真の自由は「わからない」を受け入れた先にある。その静かな空間──それが、発明空間である。
 発明空間とは、形式が溶け、言葉が沈み、ただ観察が息をしている場所である。

 発明とは、その空間で世界と再び出会うこと。それは新しさではなく、気づきの成熟である。

第一章 政治 ― 見る仕組みの政治

 政治とは、見る仕組みである。誰が何を支配しているのか──その問いの奥には、誰が「世界をどう見ているのか」という構造が隠されている。

 人々は権力を「他者の上に立つ力」だと考える。だが実際には、権力とは見方の秩序である。世界をどの角度から見るか、どの言葉で語るか、どの沈黙を許すか。その選択の集積が、政治という名の見えない網をつくる。

 この網は、支配する者とされる者の区別を超えて、社会のあらゆる層に編み込まれている。政治家も、市民も、教師も、子どもも、それぞれが「正しい見方」をもとうとし、互いに見張り合っている。
 これを私は「視線の共同体」と呼ぶ。その共同体は、秩序を守るために存在するのではない。むしろ、安心を守るために存在している。

 人々は、不安に耐えられない。だから、確実な構図を欲しがる。右と左、上と下、勝者と敗者。そうした単純な構造のなかでしか、自分の位置を確認できない。この「位置確認の欲望」こそが、支配の根であり、政治の原型である。
 だが、政治の発明とは、この構図をつくり替えることではない。構図そのものを見抜くことである。

 世界を枠で囲むのではなく、その枠がどのように生まれているのかを見ること。その瞬間、政治は制度ではなく、1つの「観察の行為」に変わる。

 多くの人々は「民主主義」という形式に安住する。多数の意見が正義をつくると信じる。だが、多数とは、ただ同じ方向を見ている人々の集まりにすぎない。彼らの目は、同じ不安に縛られている。

 民主主義は、見方の多様性ではなく、見方の同調によって機能している。それゆえに、最も穏やかに人を支配する仕組みでもある。
 この支配は、誰かが意図して行うものではない。むしろ、意図を超えて働く「構造」だ。すべての人が、自分のなかの安心のために、無意識に世界を整列させる。この整列が進むほど、自由な観察は減っていく。

 政治の本当の問題は、権力の腐敗ではない。観察の欠如である。
 人々が見なくなる。見ているつもりで、すでに決まった像しか見ていない。それが、現代の政治空間の静かな病だ。
 発明空間の政治は、その病を見抜くことから始まる。そこでは、権力を倒すことでも、制度を壊すことでもなく、「見え方を解く」ことが改革である。

 見るとは、判断を保留すること。支配とは、判断を固定すること。この2つの差が、政治と発明の差である。
 発明とは、誰もが当然と思っていた枠を、一度だけ外してみる勇気だ。すると、支配も自由も、敵も味方も、すべてが一時的な構図にすぎなかったことがわかる。
 政治とは、本来、人間が世界をどう「見てしまう」かを映す鏡である。その鏡を正すこと──それが、発明空間の政治である。

第二章 教育 ― 知ることの暴力

 教育とは、知識を与えることではない。本来は「見る力を養うこと」である。しかし現実の教育は、見ることを教えず、「わかったつもり」を植えつける訓練になっている。

 子どもたちは、まだ世界をまっすぐに見ている。理解するより先に、感じ、驚き、沈黙する。彼らの目には、世界はまだ完成していない。すべてが流動し、まだ名もない。
 だが、教育が始まると、世界は「正解」と「間違い」に分けられる。驚きは評価に置き換えられ、沈黙は劣等と見なされる。こうして子どもたちは、「理解の形」へと矯正されていく。
 学校という場所は、「わかる者」と「わからない者」に人を分ける。この二分こそが、知の暴力の始まりである。

 わかるとは、世界を一度死なせることだ。生きた事象を概念に変え、動く現象を図式に収める。それは思考の整理には役立つが、観察の自由を失わせる。
 「知ることの暴力」とは、世界の複雑さを単純化し、その単純さを人の価値と錯覚させる力である。
 学ぶという行為の根は、「わからないままに立ち止まる」ことにある。しかし、いまの教育は、立ち止まることを許さない。常に次の答えを求め、問いの余韻を恐れる。
 問いを抱える時間が、「無駄」と呼ばれる社会では、思考は育たない。発明は沈黙のなかからしか生まれないのに、教育は沈黙を排除する。

 教師は、答えを知る者として立つ。だが、真に教育する者は、「わからない者として共に立つ者」でなければならない。

 教えるとは、知らないことを守ることである。知らないという状態は、知識の欠如ではなく、観察の可能性である。
 学ぶとは、世界を再び見ることであり、知識とは、その一時的な影にすぎない。影を光と誤解したとき、教育は宗教になる。信じる知識、崇拝される正解。そこに、自由な観察はもはやない。
 教育とは、「世界をどのように見てよいか」を教える構造である。その構造を発明的に変えるとは、教え方を変えることではない。「見ることを教える」ことをやめること。
 子どもに世界を見せるのではなく、世界が子どもを見ていることに気づかせる。そのとき、教育は発明空間に変わる。

 発明とは、学びの外で起こる現象である。教室で教えられるのではなく、教室の外に出て、風のなかで起こる。そこでは、知識ではなく、観察の誠実さが生きている。
 学ぶ者とは、世界をわかろうとする者ではなく、世界を見抜こうとする者である。
 発明空間の教育とは、「知ること」よりも「見ること」を尊び、「答え」よりも「気づき」を信じる場所である。そして、それは制度のなかには存在しない。
 それは、教師と生徒の間にある沈黙の空間、あるいは、一枚の紙を見つめるその視線のなかに、すでに始まっている。

 教育の発明とは、理解をやめることではなく、理解の“働き”を見抜くことにある。

第三章 宗教 ― 信じない信仰

 人はなぜ、神を信じるのか。それは、世界を見切れないからである。見切れないものの前に立つとき、人は恐れ、そして、名を与える。その名が「神」と呼ばれる。
 しかし、神とは名ではなく、気づきの出来事である。神はかたちをもたず、声をもたない。それは「見る者」が、自らの限界を見抜く瞬間に初めて現れる。

 信じることは、見ることの一種である。だが多くの場合、信じることは「見ないための工夫」になっている。見えないものを信じるのではなく、見えないままでいたくないから信じるのだ。信仰は、安心の代用品としてつくられていく。
 「安心」は、宗教を腐らせる。安心を求める信仰は、神を道具に変える。祈りが願望の形式に堕ちたとき、信仰は観察を失う。

 真の信仰とは、神を信じなくても立っていられるほどに、世界をそのまま見ていられる強さである。信じるのではなく、ただ、見る。
 見ることを続けるとき、やがて「私」が消える。観察する者と観察されるものが溶け合い、世界が世界を見ているような静けさが訪れる。その瞬間、人は“神を見る”という。だがそれは比喩ではない。それが“見るという行為の最果て”である。

 宗教は、本来「見る訓練」であった。沈黙は、祈りの形式ではなく、観察を極めるための条件だった。言葉を失うことは、知を失うことではなく、言葉が見えなかったものを覆っていたことに気づくことだ。

 人は、理解しないことで、初めて世界を感じる。神を“わかる”と思うことほど、神から遠ざかることはない。わかるとは、閉じることであり、信じるとは、とどまることである。
 だから、信じない者のなかにも信仰があり、信じる者のなかにも不信がある。それらは対立していない。それは、見る方向の違いにすぎない。

 宗教の発明とは、信仰の制度を変えることではなく、信仰という行為の構造を見抜くことにある。信じるとは何か。その行為がどこから生まれ、何を恐れ、何を隠しているのかを見抜く。そこに、宗教の発明がある。

 宗教の本質は、神にあるのではない。見ることの姿勢にある。沈黙のなかにいる者は、何かを信じているように見える。だが実際には、信じてはいない。ただ、見抜こうとしているのだ。
 発明空間における宗教とは、世界を正しいと信じることでも、否定することでもない。それは、「世界を見ようとする行為そのもの」を、神聖なものとして受け取ることである。
 祈りとは、願いではなく、観察の純化である。観察が限界まで澄み切ったとき、その透明さが、祈りと呼ばれる。
 そのとき、信じるも信じないも、すでに意味を失う。見ることそのものが、神と人を結ぶ最後の橋となる。

 信じない者の目にこそ、世界はまっすぐに映る。

第四章 芸術──世界が自らを見ようとするとき

 芸術とは、世界が自らを見ようとする行為である。人が何かをつくるとき、その衝動は「表現」ではなく、観察の再現である。
 芸術家は、自らの想像力を信じているわけではない。彼は、世界の沈黙を聴こうとしている。その耳の奥に、形になりたがっている何かがある。それは彼自身のものではない。世界が、彼を通して、自分自身をたしかめようとしているのだ。
 芸術を「創造」と呼ぶとき、人はすでに誤解している。創造とは、無から生み出すことではない。無限に広がる現実のなかの、まだ誰も見ていない角度に、目を向けることである。
 人間が何かを「作った」と感じる瞬間、それは世界の一部がようやく可視になった瞬間だ。つまり、創造とは、観察の結果であり、観察の副産物である。

 世界のあらゆる美は、人間の外側にすでに存在している。芸術家はそれを「見抜く者」にすぎない。彼の手は、観察の延長であり、筆や声は、世界の声を伝えるための器官だ。
 しかし現代の芸術は、多くが自己表現の形式に閉じてしまった。自我の主張、感情の誇示、個性の競い合い。それらは一見自由に見えるが、実は、最も閉ざされた観察である。
 なぜなら、自己表現とは、「自分」という形式を前提にしている。その形式のなかで見える世界は、常に限定されている。
 発明空間の芸術は、自己を超える観察を目指す。「私は見ている」ではなく、「世界が私を通して見ている」という感覚に立つ。
 このとき、芸術家は創作者ではなく、通路となる。世界が光を通すための、1つの透明な管になる。

 作品は、芸術家の所有ではない。それは世界の断片であり、人の目に触れたいと望む、存在のささやきである。
 芸術家が手を加えることは、世界の沈黙に手を差し伸べることだ。筆を置いた瞬間、作品は彼の手を離れ、世界へ戻っていく。
 芸術の発明とは、新しい技法の創出ではなく、世界の見え方の更新である。見る角度をわずかにずらすだけで、無限のかたちが生まれる。

 真の芸術は、人を感動させるためにあるのではない。感動とは、観察が深まる瞬間に起こる副作用である。
 芸術の目的は、世界を見せることではなく、見るという行為そのものを思い出させることにある。
 美とは、世界が自らの存在を確認するときに生まれる光である。それは「つくられる」のではなく、見抜かれることで現れる。

 芸術空間とは、世界が一瞬、自分の姿をのぞき込む鏡である。観客もまた、鏡の一部である。見ているようで、見られている。その相互の観察が、芸術という現象を成り立たせている。

 芸術とは、世界が自らをのぞくために1人の人間を選ぶこと。

 芸術が宗教と異なるのは、対象が神ではなく、現実そのものであることだ。しかしその核心は同じだ。どちらも、「見ることの限界」を超えようとする行為である。
 芸術家の沈黙は祈りに似ている。彼が筆を置く瞬間、それは礼拝であり、降伏である。その降伏のなかに、世界は自らのかたちを見いだす。
 芸術とは、世界が自分自身に手紙を書く行為だ。その封筒が、人間である。

 この章で、芸術は「創造」から「観察」へ、人間は「表現者」から「通路」へと置き換わる。発明空間の哲学がここで完全に具体化され、世界そのものが「見る存在」であるという思想へ到達する。

補章 発明──再覚醒の哲学

 発明とは、新しいものを生み出すことではない。それは、すでに在るものを、在ると見抜くことである。
 人はいつも「何かを加える」ことで進歩を信じてきた。だが、世界はすでに満ちている。欠けているのは、ものではなく、見る力である。
 発明は、創造ではなく再覚醒。それは、忘れていたものを思い出すこと、無視していたものに再び気づくこと、見過ごされた関係を、もう一度感じ取ることだ。

 発明とは、特別な才能ではない。それは、単純な観察の深さで決まる。しかし、人は単純なことを見ることを、最も恐れる。なぜなら、単純なものほど、自分の「見方の癖」を映し出すからだ。
 人は、世界を理解することで安心を得る。合理化とは、世界を制御する技術である。だが、合理化が進むほど、観察の自由は狭まっていく。
 理解は、認識の牢獄をつくる。人が「わかった」というとき、それはすでに「見なくなった」という意味を含んでいる。

 発明が起こらないのは、能力の不足ではない。それは、認識の固定のせいである。
 発明とは、世界の見え方を一度崩すことだ。秩序を破壊するのではなく、秩序の“見方”を静かにほどく。
 それは、思考を止めることではなく、思考の動きを観察することである。発明とは、思考の働きを思考の外から見つめる瞬間、その沈黙のなかで起こる。

 世界のなかには、常に新しいかたちが潜んでいる。だがそれは、「新しい」という名をつけた瞬間に逃げる。発明は、発見の前に起こる。つまり、「気づく」よりも前に、すでに世界がこちらを見ている。
 人は、発明を自らの功績とするが、それは誤りだ。発明とは、世界が人を通して見え直す出来事である。
 人間が何かを発明するのではない。世界が、観察者を見つけるのだ。

 発明空間とは、世界が自らを再び意識するための場所である。人間は、その媒介として一瞬だけ立ち会う。その瞬間、「見る者」と「見られるもの」は1つになる。
 それが、再覚醒である。再覚醒とは、「新しい理解」ではない。それは、理解という衝動から解放されること。知ることではなく、知る前の沈黙に立ち返ること。

 発明の行為は、一種の“忘却”に似ている。覚えようとせず、制御しようとせず、ただ世界が自らの姿を現すのを待つ。
 そのとき、思考は透き通り、世界は再び動き始める。発明は、知の延長ではなく、知の解放である。

 人々は「新しい時代」を望む。だが、時代を新しくするのは技術ではない。それは、見る人の意識である。世界の見え方が変わったとき、時代は変わる。

 だから、発明とは社会の出来事ではなく、意識の出来事なのだ。1人の人間のなかで起こる観察の変化が、静かに社会のかたちを変えていく。

 発明とは、「世界の見方が変わる瞬間」である。それは、雷鳴のように訪れるのではなく、葉の落ちる音のように静かにやってくる。
 誰も気づかないうちに、見ることの角度がわずかに変わり、その変化が、やがて新しい世界をかたちづくる。

 発明とは、驚きではなく、理解の解体である。そして再覚醒とは、「新しい自分になる」ことではなく、自分という形式を見抜くことである。
 人間の使命とは、世界を変えることではなく、世界の“見方”を更新し続けることだ。それが、発明空間に生きるということ。

 発明は、世界が自らを思い出す瞬間である。

結語 形式のなかにいて、形式を見抜く

 形式を超えようとして、私は多くの形式に出会った。
 拒み、壊し、離れようとしたとき、また別の形式が生まれた。それは私の外ではなく、私の見方そのものがかたちをつくっていたのだ。
 形式を超えるという言葉は、やがて意味を失っていった。形式を超えようとする意志さえ、また1つの形式であることに気づいたからだ。

 世界は、形式の網でできている。言葉も、思想も、制度も、人間の記憶も、すべてかたちとして働いている。それを否定することは、世界を否定することに等しい。
 だから、私はもう形式を壊そうとは思わない。形式のなかにいて、形式を見抜くこと。そこにしか、自由はない。

 形式は敵ではない。形式は、見るための足場である。だが、その足場を自分だと思ったとき、人は沈む。形式に沈むとは、見ることをやめるということだ。

 見抜くとは、破壊ではなく、透過である。透かして見ること。怒りをもたず、軽蔑をもたず、ただ、透明になること。
 その透明さのなかで、形式もまた、生き始める。形式は、見抜かれたとき、初めてその働きを取り戻す。

 私は形式のなかにいる。言葉のなかに、制度のなかに、社会という網のなかに。だが、私はそのなかで、沈まずに立っている。
 それは、形式を信じることでも、拒むことでもない。ただ、形式を見ている。
 そのとき、形式はもはや牢獄ではなく、世界が自らを理解しようとする過程になる。

 発明空間とは、形式を離れる場所ではなく、形式が光を透かす場所である。人はその光を見たとき、自らが形式の一部であり、同時にそれを見抜く意識でもあることを知る。
 そのとき、世界と人との境は消える。見る者と見られるものは1つになり、ただ観察だけが息をしている。

 発明とは、その息のことだ。静かで、確かで、誰のものでもない。それは人の理解の外で起こり、世界の内で続いている。
 形式を見抜く者は、形式のなかに平安を見いだす。超えることではなく、透かして生きること。それが、形式を超える者の記である。

 見るとは、沈黙のうちに世界を赦すこと。
 形式のなかで、私はなお、見ている。

(つづく)

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