竹原信一緊急寄稿(6)行政無能の構造──秩序が愚かさを育てる

阿久根市議会議員 竹原信一

 中央政界が新たな転換点を迎え、政治構造が大きく揺らいでいる。そんななか、かつて鹿児島県阿久根市政を刷新し、地方から政治のあり方を問い続けた竹原信一氏から緊急寄稿を頂いた。

 日本の民主主義の在り方に大きな疑問符を投げかけてきた異色の元市長が、中央政界の激変に直面した日本国民に向けたメッセージを、連載してお届けする。

Ⅰ 制度設計としての「無能」

 行政とは、本来「公の意思を実現するための組織」である。しかし現実の行政は、目的よりも手続きの正当性を守ることを第一義としている。つまり「何を成すか」よりも「どのように見えるか」が重要になる。この構造が、「判断できない行政」「責任を取らない行政」を必然的に生み出す。行政の目的は成果ではなく、失敗しないことである。これが根本的な病である。成果を追う組織は変化を求めるが、行政は前例を基準に動くため、成功体験を更新できず、過去の自分に縛られていく。

Ⅱ 責任回避の文化

 行政には「意思決定者」が存在しない。課長は上を見て動き、部長は市長を見て動き、市長は議会を盾に動く。結果として誰も責任を取らない。この構造では、最も安全なのは何もしないことであり、能動性は排除される。自分の判断で動く職員ほど危険とされ、能力よりも従順さが評価される。これが長期的に行政全体の思考の筋肉を衰弱させる。

Ⅲ 倫理の形式化と官僚的美徳

 行政では「中立」「公平」「透明」が美徳とされる。しかし実際にはそれが無責任を隠す仮面として機能している。「公平」は判断を避けるための盾、「中立」は意見をもたないことの言い訳、「透明」は形式の正当性を装うための装飾である。その結果、職員は内的倫理に基づく行動ではなく、規則の文言に従うことで“正義を免除される”存在となる。法や規定が「考えないことの免罪符」として使われている。

Ⅳ 教育と採用の失敗

 行政職員は「思考の独立性」よりも「協調性」で選ばれる。大学教育も「正解を答える訓練」であり、疑う力・創造する力を育てない。その結果、問いを立てない人間が、問いを処理する行政に集まる。採用制度自体が、無能を選び出すフィルターとなっている。「間違えない人」を採ることが、「賢い人を排除する」ことと同義になっている。

Ⅴ 市民社会の共犯構造

 行政の無能は、市民の無責任と表裏一体である。市民は「強いリーダー」を求めながら「責任を取りたくない」。行政が無能であることは、市民にとっても都合の良い安心を与えている。「誰かがやってくれる」「市役所が決めてくれる」「自分には関係ない」。この依存が、行政の無能を支える社会的インフラになっている。つまり、行政の無能は、市民の精神の鏡である。

Ⅵ 結論 ── 秩序という名の自己防衛

 行政は、無能であることで体制を安定させている。能力が高く誠実な職員が増えれば、制度の矛盾が露わになり、組織は崩壊する。従って行政の無能とは偶然ではなく必然である。それは秩序を保つために意図的に育成される欠陥であり、国家の自己防衛本能の表れである。行政の無能を変えるとは、単に人を入れ替えることではなく、秩序そのものを問うことである。

(つづく)

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