竹原信一緊急寄稿(7)支配を欲する民──無能の権威と大衆の安堵

阿久根市議会議員 竹原信一

 中央政界が新たな転換点を迎え、政治構造が大きく揺らいでいる。そんななか、かつて鹿児島県阿久根市政を刷新し、地方から政治のあり方を問い続けた竹原信一氏から緊急寄稿を頂いた。

 日本の民主主義の在り方に大きな疑問符を投げかけてきた異色の元市長が、中央政界の激変に直面した日本国民に向けたメッセージを、連載してお届けする。

Ⅰ 支配は上からではなく、下からつくられる

 人々は「誰が私たちを支配しているのか」と問うが、実際には支配は上から与えられるものではなく、下から求められるものである。国家も行政も、民衆の心のなかの恐れを根拠に存在する。恐れとは、責任の重さ、自由の孤独、判断の不安。それらを手放すために、人は「誰かに決めてもらう」ことを望む。その結果、支配とは、従う者の欲望が生んだ心理的契約となる。

Ⅱ 大衆は「有能な独立者」よりも「無能な保護者」を好む

 有能な指導者は民衆に問いを返す。「あなたはどう生きたいのか」と。しかし、それは人々に考える苦痛を与える。一方、無能な権威者は「安心できる答え」を与える。その答えが誤りであっても、人々は正確さよりも安心を選ぶ。だからこそ、民衆は「無能な権威」を好み、その無能を「優しさ」や「人柄の良さ」として正当化する。支配者の愚かさは、支配される者の願望のかたちである。

Ⅲ 責任の委譲と「道徳的免罪」

 無能な権威に従うことで、人々は自らを赦すことができる。なぜなら、決めたのは自分ではないからだ。この瞬間、責任が他者に委譲されることで、個人の良心が停止する。官僚の命令、制度の決定、上からの指示。それらが人間の判断を代行するたびに、人々は「罪のない加害者」として支配に加担していく。これは、アーレントのいう「悪の凡庸さ」と同じ構造である。思考しない従順が、最も効率的な支配の形式である。

Ⅳ 「無能の権威」を欲する社会

 行政、教育、メディア、宗教。これらはすべて「安心を生産する産業」として機能している。その安心の条件とは、権威が人々より少し愚かであること。愚かであるほど近く感じ、近く感じるほど批判できない。だからこそ、権威は「優しさ」と「凡庸さ」を装う。民衆の精神に寄り添うふりをして、思考を奪う。無能の支配は、暴力ではなく慰撫によって維持される。

Ⅴ 結語 ─ 支配を終わらせるとは、従属の快楽を捨てること

 支配の根は、権力者ではなく、支配を望む心のなかにある。人々が自由を恐れなくなったとき、支配者は自らの立場を失う。無能な支配を終わらせる唯一の方法は、無能を欲する自分を見つめることである。それは革命ではなく、精神の成熟である。制度を倒すのではなく、依存の欲望を断ち切ること。そのとき初めて、人間は「支配される自由」から「生きる自由」へと還る。

(つづく)

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