阿久根市議会議員 竹原信一
中央政界が新たな転換点を迎え、政治構造が大きく揺らいでいる。そんななか、かつて鹿児島県阿久根市政を刷新し、地方から政治のあり方を問い続けた竹原信一氏から緊急寄稿を頂いた。
日本の民主主義の在り方に大きな疑問符を投げかけてきた異色の元市長が、中央政界の激変に直面した日本国民に向けたメッセージを、連載してお届けする。
地方議会における主体喪失と報道による熟慮の排除
1.はじめに
地方議会改革の議論において、「議員定数削減」は常に注目を集める。しかし、その議論の多くは、数という表層に囚われ、本質である「議員の質」「熟慮の精神」を見失っている。
定数削減は、財政健全化や効率化の名のもとに支持されるが、実際には思考と責任からの逃避を正当化する装置として機能している。
数への執着は、民主主義の核心である熟慮(deliberation)を破壊し、政治を演技と数合わせの競技に変えてしまった。
2.「主義」という安住の病
現代の政治は「主義」という言葉に安住している。「民主主義」「保守主義」「改革主義」など、立派な理念を掲げるほど、思考の自由は奪われていく。
主義とは本来、世界を理解するための仮説にすぎない。しかし、それが「自分の代わりに考えてくれる思想」へと変質するとき、人間は主体であることをやめる。
地方議員の多くが、「自分の考え」ではなく「立場の正しさ」に従う。そこには責任を負う個人の姿はなく、主義という名の逃避があるのみである。
3.数という幻想
議員定数削減の議論は、一見「改革的」で「合理的」に見える。しかし実際には、質の低下を隠すための方便として使われていることが多い。
議会の機能不全を「数」のせいにすることで、議員自身も市民も安心する。「人数が多いからダメだ」「減らせば良くなる」という単純な物語は、思考の負担を取り除いてくれるからだ。
だが実際には、問題は数ではなく質であり、質とはすなわち熟慮する能力と誠実さである。
熟慮の欠如を数で覆い隠すとき、議会は思考を停止し、市民は監視を放棄する。その結果、行政は説明責任から解放され、議会もまた自らの無能を正当化できる。
こうして「数」は、市民の怒りと疑問を吸収する政治的防波堤となり、無能な行政と議会の共犯関係を守る盾となっている。
4.報道による熟慮の排除
この数の論理を支えているのが、報道である。
メディアは「削減」「効率化」「改革」という響きの良い言葉を繰り返し、熟慮よりも即断を称賛する。
複雑な議論は「わかりにくい」と切り捨てられ、思考の過程よりも結論だけが消費される。こうして「考える政治家」よりも「わかりやすい政治家」が評価され、内容よりも態度がニュースになる。
報道は、社会の知的水準を高めるどころか、思考を嫌う文化を再生産している。市民は報道の提示する単純な正義に安堵し、疑問を抱くことをやめる。まさに、「数への逃避」と「熟慮の排除」が手を組んで社会を眠らせているのだ。
5.地方自治の危機としての「思考の欠落」
地方議会が行政を監視できない最大の理由は、知識でも制度でもなく、「考えないこと」に慣れた精神構造にある。
議員は組織や立場を守るために沈黙し、市民は報道を通じて現状に同調する。誰もが自らの安寧のために思考を放棄することで合意している。
それはもはや政治の機能不全ではなく、人間の機能不全である。
このままでは、地方議会は「熟慮の場」ではなく「報道に管理された演技空間」となり、自治という言葉の意味そのものが消滅する。
6.議員報酬と政治の経済的堕落
現実の地方議会を見れば、議員の質の向上は望むべくもない。
多くの議員は、理念ではなく経済的安定を求めて議席を得ている。議員職は一種の体の良い失業対策と化し、政治的使命よりも生活保障の手段となっている。
本来、地方議員の報酬は、職責の重さや公共奉仕の意識を支えるためのものであるべきだ。しかし実際には、人口が減り財政が逼迫している自治体においてすら、「成り手不足」を口実に報酬を引き上げる傾向がある。
なかには、議員を減らした分の財源を残った議員で分配するという恥知らずな構造さえ存在する。
こうした現象は、政治の倫理が経済合理性に置き換えられた結果であり、議員職が「使命」から「職業」へと転落した象徴である。
政治とは、生活の糧を得るための手段ではなく、社会の方向を問う行為である。その原点を忘れたとき、議会は理念を語る場ではなく、報酬の正当化装置に成り下がる。
7.議員の質は国民の質である——「委任の快楽」と責任の喪失
議員の堕落は、社会全体の意識の堕落を映す鏡である。
国民が「政治家が悪い」と嘆くとき、実際にはその政治家を選び、支え、容認してきた自分自身が映っている。
民主主義とは、他者に委任して終わる制度ではなく、共に考え、共に負う制度である。しかし今日の国民は、責任を委ねることで安心を得る。思考と判断を政治家と報道に任せ、自らは観客席で批評するだけで満足する。
その精神の怠慢が、議員の無責任と共鳴し、社会全体を無思考の安定に導いている。
政治の退廃は、国民の退廃であり、地方議会の衰弱は、地方社会の精神的衰弱そのものである。
8.結論──「考えること」への回帰
必要なのは、定数の削減でもなく、主義の標榜でもなく、報酬の調整でもない。必要なのは、考える勇気である。
主義にも、数にも、報酬にも、報道にも頼らず、現実の痛みを見つめ、自らの言葉で語ること。それこそが、議員の質を高め、市民社会を再び成熟させる唯一の道である。
数は人間の知性を代替しない。むしろ数に逃げ、金に縋る社会こそが、人間の思考を最も深く裏切るのだ。
9.行政追認の議会——議会事務局支配と空洞化する権威
地方議会の現場において、形式的な民主主義はすでに崩壊している。その最大の原因は、議会事務局による実質的支配構造にある。
表向きは「議長」「委員長」が議員の多数決で選ばれるものの、議事の進行・法令解釈・答弁調整のほとんどを握っているのは、事務局職員である。
職員は行政組織の一部であり、その価値判断は行政の都合を最優先とする。従って議会運営は、外形上は「二元代表制」であっても、実質は行政一元支配の従属装置となっている。多くの議員は、法制度の理解や議会運営の技術を欠いているため、事務局の指示に従うしかない。
議会運営の専門性が職員に独占されることで、議員は「説明を受ける側」となり、思考よりも従属が常態化する。法の解釈や手続き上の「説明」を受けることが、すでに統治の手段となっているのだ。
議員たちはその構造に疑問をもつこともなく、むしろ安心感を覚える。自ら決断することの重さを回避し、“空気を読む”ことこそ政治的適応と信じている。
こうして議会は、行政を監視する機関ではなく、行政を代弁する機関へと転落した。議員たちは互いに「見かけ」を守り合い、形式的な合意を繰り返す。
対立を避け、波風を立てないことが「協調」と呼ばれ、沈黙が賢明さと誤解される。そこでは真実を語る者ほど孤立し、考える者ほど煙たがられる。
しかしこの無能な平衡状態は、しばしば突発的な暴走をともなう。行政と議会が一体となり、自己満足的な「成果づくり」に走るときである。
新しい施設、道路、箱物建設——それらは衰退する地域における唯一の“成功体験”であり、議員たちの自己正当化の儀式でもある。
職員はそれを止めるどころか、予算と事業の拡大を自らの評価指標とするため、推進装置となる。こうして地方自治は、行政と議会の共犯的膨張装置として暴走する。
この構造は、阿久根市のような消滅可能性自治体においてとくに深刻である。人口減少と財政悪化という現実を前にしても、議会と行政はあたかも発展期の錯覚を演じ続ける。
自らの地位と存在を維持するために、未来を担保に箱物を建て、負債を積み上げていく。
それはもはや「地方自治」ではなく、制度疲労と無能の演算結果である。
(つづく)








