阿久根市議会議員 竹原信一
中央政界が新たな転換点を迎え、政治構造が大きく揺らいでいる。そんななか、かつて鹿児島県阿久根市政を刷新し、地方から政治のあり方を問い続けた竹原信一氏から緊急寄稿を頂いた。
日本の民主主義の在り方に大きな疑問符を投げかけてきた異色の元市長が、中央政界の激変に直面した日本国民に向けたメッセージを、連載してお届けする。
Ⅰ.教育の終焉と文明の再生産装置
現代の学校制度は、近代国家の形成期における「秩序維持装置」として設計された。そこでは「同一化」と「統制」が価値とされ、個性や直観はノイズとして排除されてきた。だが今やその教育システムは、創造的な生命を窒息させる牢獄へと変貌している。産業社会を支えたこの装置は、情報社会・感性社会の時代においては時代錯誤の遺構である。学ぶとは「覚えること」ではなく、「自らを発見し直すこと」である。にもかかわらず、学校は依然として「標準化された人間」を大量生産し続けている。
Ⅱ.減点方式から創造方式への転換
学校教育の根幹は「減点方式」である。ミスは罰せられ、逸脱は訂正され、評価は「失敗を避ける能力」によって決まる。しかし社会において価値を生むのは、「正答を再現する人間」ではなく、「誤答を創造に変える人間」である。富裕層が学校教育を拒むのは、まさにこの価値観の逆転を理解しているからだ。彼らは子どもに「正解をあてる」ことを求めず、「全力で挑む」ことを教える。「100点取るよりも100%で挑め」──これが、文明の創造者に共通する精神的構造である。
Ⅲ.同質化の代償と個性の死
学校という制度は、社会を安定させるために設計された「人間の型取り装置」である。多様性は「扱いにくさ」とされ、違いは「矯正の対象」とされる。その結果、子どもたちは自らの感性を閉ざし、社会の部品として「交換可能な存在」へと変えられていく。だが文明が新しい段階に進むためには、個性を「異常」ではなく「発芽」として見る感性が必要だ。違いを排除する社会は繁栄しても成熟しない。成長する文明とは、異質性を受け入れる度量を持つ社会である。
Ⅳ.お金と生の教育
学校は「生きる現実」から最も遠い場所にある。税、保険、投資、経済構造──それらは避けられ、「生活」は抽象的にしか語られない。しかし現実の社会では、経済が人間の生存を支配する。富裕層が子どもに教えるのは、お金の稼ぎ方ではなく、お金の流れと意味である。彼らはこう教える。「金を追うな。金が追いかけたくなる人になれ。」お金とは目的ではなく、人と人との関係を媒介する「流れの言語」である。それを理解した者だけが、豊かさを管理ではなく創造として扱う。
Ⅴ.教育の再定義──知識の伝達から意識の覚醒へ
真の教育とは、「知識の蓄積」ではなく、「意識の覚醒」である。外の情報を詰め込むことではなく、内なる感受を呼び起こすこと。それが「学ぶ」という言葉の本来の意味に最も近い。教育の目的は、失敗を恐れない心、自分の感情を言葉にできる力、そして権威を疑い世界を再構築する勇気を育むことにある。この教育観は、内なる文明論と響き合う。学ぶとは「外界を知る」ことではなく、「自己をつくり変える」ことである。
Ⅵ.学校の外に学びの文明を築く
富裕層の行動は、制度への拒絶ではなく、「学びの主権の奪還」である。学びとは、国家のためのものではなく、人間のためのもの。それは制度の内部ではなく、生命の内部に宿る。これからの文明は、学校という制度を超えて、人間そのものが学びの中心となる文明でなければならない。それは、文明の進化を「技術の高度化」ではなく、「精神の成熟」として捉えることに他ならない。人間の尊厳を取り戻す学び――それこそが、新しい文明の基礎である。
(つづく)








