神仏習合の根源~宇佐神宮

宇佐神宮

神仏習合のルーツを探っての宇佐神宮参り

 仏教が日本に伝来したのは百済経由で538年(一説では552年)というのが学説である。本当に伝わったのは2~3世紀といわれている。574年生まれの聖徳太子が「日本国家体制のレベルアップ(支配規範の確立)が必要」と認識して神仏習合を促進したのである。その蓄積の上に725年、八幡神が祭られたと記録されている。そこからが宇佐八幡宮のスタートだ。

 725年という時代は日本においては大和に権力を駆使できる国家が形成されている。国家命令で宇佐神宮(前身)の社殿が構えられた。当時の国策(神仏習合)=(現在の憲法に値する)を奨める先導役を宇佐神社が担ったのである。別紙のまとめを参照されたし。読者の皆さん!!まさしく国策(神仏習合)を全国に拡販する主導的な役割を同神社が担ってきたことは理解できるであろう。

西暦ゼロには神道は広がっていた

宇佐神宮    我が故郷・宮崎県日向市美々津から2686年前、神武天皇は東伐に船出したといわれる(そのお船出を祝う式典はまだ残っている)。

 この神武天皇の東伐行動から見ても紀元前600年前後には全国津々浦々、小国が群立しているのは間違いなかったと思料される。小国乱立といえども集落生活が点在している人類の文明水準からいえば、宗教の成立(たとえば日本では神道)があったと推論を立てるのは賢明な話。たとえば紀元前500年から西暦250年までは大型古墳がつくられていた。

 ところがこの古墳には目的が定まらなかった(誰を祭っているかが不明)。古墳の大きさからみても莫大な土木工事である。文明の水準の高さが想像できる。この当時でも故人を敬い、墓(古墳)を祭るという行為は信じる宗教(神道)によって支えられていたのである。ただし、この神道には哲学が無かった。当時の先祖たちはただ自然に素直に敬うところまでの崇高な先祖への感謝、地域の山々、川、海に心服する宗教心を十分に抱いていた。

 だが残念ながら哲学的な理論武装がないという弱点により、日本の先祖たちは仏教の普及とともにいろいろと思索する鍛錬を受けることになった。結果、大型古墳墓地建設が消滅していった。

 後記してある宇佐神宮の資料を参照し、思料していただきたい。奈良時代から宇佐神社は西日本地域を統治していた拠点であることが一目瞭然だろう。国東半島と宇佐神社の関連は別の機会にレポートする。付記するならば「国東半島には古代文字が残っている」と考古学専門家たちが指摘している。近々、このプロジェクトに参加してみるつもりである。

宇佐神宮の歴史

(1)創建:八幡信仰の発祥(奈良時代・8世紀)

【創建時期】

 『続日本紀』によると、725年(神亀2年)、豊前国(現在の大分県宇佐市)に八幡神が現れたと伝えられている。

 当初は宇佐郡の小山(現・宇佐市南部)に祭られたのが始まり。後に現在地(宇佐盆地の丘陵地)に社殿を構えたとされる。

【ご祭神】(主祭神)

ご祭神(主祭神)

【信仰の成立】

 八幡神は、古くは「農耕・産業の神」として地域信仰に根ざしていたが、奈良時代に入り、国家鎮護・武運の神として位置づけられる。

 とくに奈良の大仏建立(東大寺盧舎那仏)に際して、「八幡神が仏法を守護する」という神託が下り、仏教を支える神として崇敬されるようになった(これが後に全国に広まる「神仏習合の原点」になる)。

(2)神仏習合の始まり(奈良~平安時代)

【東大寺大仏建立と八幡神】

 749年、聖武天皇が東大寺大仏を建立する際、宇佐八幡神が「自ら奈良へ赴き、大仏造立を守護する」と神託を下したと記録されている。

 これにより、宇佐八幡は国家神(鎮護国家の神)として地位を確立。大仏の建立を守護した後、奈良・平安京に八幡神を勧請(分霊)し、のちの石清水八幡宮(京都府)や鶴岡八幡宮(鎌倉)の原点となる。

【 神仏習合の典型】

 宇佐神宮では、早くから「神宮寺」と呼ばれる仏教施設が併設され、 神職と僧侶が共同で祭祀を行う形式が確立された。八幡神は「八幡大菩薩」として仏教の守護神に位置づけられ、この思想が全国に広がっていく。

(3)六郷満山文化の母体(平安~鎌倉時代)

 宇佐神宮の信仰は国東半島へ広がり、半島全体に八幡信仰を基盤とする寺院群「六郷満山(ろくごうまんざん)」が形成される。六郷満山は、八幡神(神)と仏(阿弥陀・観音・大日など)を一体化した信仰体系で、日本的神仏習合の完成形といわれる。

<六郷満山とは>
 宇佐八幡宮の神霊を中心に、国東半島の山々に修験者たちが寺院を建立。神仏一体の祈りと修行の場が広がった宗教文化圏。

(4)中世:国家・武家の守護神へ(鎌倉~室町時代)

 源氏の氏神として、八幡信仰は全国に広まっていく。鎌倉幕府を開いた源頼朝も、宇佐神宮から分霊された鶴岡八幡宮を氏神とした。宇佐神宮は「八幡信仰の総本宮」として尊崇を集め、朝廷・幕府から神領や荘園の寄進を受ける。

<特徴>
 武家の守護神 → 「八幡大菩薩」の称号が広まり、武士階級の精神的支柱となる。神仏習合が進み、神宮内にも多数の仏堂・塔頭が存在。

(5)戦国時代~安土桃山期:衰退と保護

 16世紀、大友宗麟(豊後の戦国大名)が宇佐の地を領有。宗麟はキリシタン大名でありながらも、宇佐神宮を保護しつつ宗教政策を調整。しかし、戦乱による被害で社殿が荒廃。後に豊臣秀吉や黒田如水らの援助で再建される。

(6)江戸時代:神仏分離以前の最盛期

 江戸期も幕府・諸藩から崇敬され、「八幡大菩薩」信仰の中心として繁栄。宇佐神宮には、仏堂・僧坊・経蔵が立ち並び、神仏習合の典型的な形態を保ち続けた。祭礼には僧侶が読経し、神職が祝詞をあげる「共祭」形式が行われていた。

(7)明治維新と神仏分離(1868年~)

 明治新政府の神仏分離令によって、宇佐神宮も大きく変わる。「八幡大菩薩」の称号が廃止され、「八幡大神」に戻される。神宮寺や仏像、仏具はすべて撤去され、純神道形式の神社として再編された。

  このとき、多くの仏像・経典が破却・流出したが、六郷満山の寺院群により一部が保存され、現在も国東半島で見ることができる。

(8)現代:神仏習合文化の象徴としての再評価

 現在、宇佐神宮は「八幡信仰発祥の地」として国宝・重文の社殿を有し、全国からの参拝者が絶えない。同時に、文化史的には「神仏習合の出発点」「六郷満山文化の母体」として学術的に再評価されている。

 毎年秋には、神輿と僧侶が共に練り歩くような古儀「仲秋祭」など、一部に神仏習合の名残をとどめている。

【宇佐神宮の社殿・構造の特徴】

 現在の社殿は江戸中期の再建(1716年)。構造は「八幡造(はちまんづくり)」と呼ばれる独特の建築様式で、前殿(内殿)と後殿(外殿)を並列に建て、間を相の間でつなぐ形式。鮮やかな朱塗りの社殿が宇佐平野に映え、神域は広大(約40万㎡)。

【年表まとめ】

年表まとめ

【まとめ】

 宇佐神宮は、八幡信仰の発祥地であり、神仏習合思想の原点であり、武家・国家の守護神として信仰された神社である。そして、国東半島の六郷満山文化は、その信仰の「子孫」であり、日本の宗教が「神と仏が共にある」ことを自然に受け入れた証といえる。

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