【特別寄稿】格差拡大こそ日本の希望である AI時代、「平等に貧しくなる国」から脱するために
作家 橘玲 氏
日本でも「経済格差が拡大している」と当たり前のようにいわれるが、データでは所得の格差は拡大していない。AIは生産性を向上させ、高所得層を生み出すかもしれないが、「みんなが平等に貧しくなる」一方の日本では、格差の拡大こそが現状から脱する“希望”になるのではないか。
「グローバル資本主義」や「ネオリベの陰謀」によって、経済格差がとめどもなく拡大しているといわれるが、これは事実なのだろうか。それを教えてくれるのが、日本の世帯所得の推移を知るため厚生労働省が3年に1回行なっている「所得再分配調査報告書」で、最新のものは令和5年(2023年)版だ。
実質賃金が増えても
世帯所得は減っていく
「再分配」とは、国家が国民から税や社会保険料を徴収し、それを年金や医療費などのかたちで国民に分配することをいう。「再分配前所得」は、こうした国家による介入が行われる前の所得で、サラリーマンなら手取りではなく額面の給与、高齢世代では年金を除いた世帯所得になる。
日本の世帯単位の再分配前所得を見て驚くのは、(年金などの再分配を除くと)年間所得50万円未満の世帯が30.4%、およそ3世帯に1世帯を占めていることだ。さらには、半数の世帯が所得250万円以下で、その一方、所得1,000万円以上の世帯も9.6%ある。
この調査の衝撃は、(コロナ禍で1年遅れで行われた)前回調査(21年)に比べて、世帯単位で見た再分配前所得が大幅に下がっていることだ。2年前の世帯所得は423.4万円で、それが384.8万円へと9.1%(38万6,000円)も減っている。
しかしこれは、にわかには信じがたい数字だ。たしかに日本では、給与の引き上げが近年の物価の上昇に追いつかず、実質賃金は4年連続のマイナスになっている。これが「生活がどんどん苦しくなる」という怨嗟(えんさ)の声を生んでいるのだが、労働者の名目所得そのものは賃上げによって増えているはずだ。――実質賃金は、名目賃金(給与明細の金額)から物価の影響を除いた「ほんとうの(実質的な)購買力」のこと。
ところが「所得再分配調査報告書」では、実質所得ではなく名目の世帯所得が、わずか2年間で9%以上も減ったことになっている。なぜこんなことになるのだろうか。
「報告書」にはその説明はないが、理由は高齢化によって労働市場から離脱する世帯が増えているからだろう。再分配前所得には年金収入は含まれないので、退職して家計が年金のみに依存するようになると世帯所得はゼロになる。その結果、企業がいくら賃上げしても、日本全体の世帯所得は減っていくのだ。
国立社会保障・人口問題研究所(IPSS)の23年推計では、人口に占める65歳以上の高齢化率は70年まで上昇する。これから40年以上にわたって、労働市場から富を獲得できないひとたちが増えていく。
日本経済についての議論では、賃上げがインフレ率を上回って実質賃金がプラスに転じることが重要だとされている。これはもちろんその通りだが、たとえ実質賃金が増えても、高齢化によって社会全体の世帯所得は減っていく。これが、日本の未来の“不都合な現実”だ。
日本の所得格差は拡大していない
再分配は低所得者に手厚く、所得が高くなるほど少なくなっていく。たとえば、所得50万円未満の世帯は拠出20万1,000円に対して184万1,000円を受給しており、差し引き164万円のプラス、所得1,000万円以上の世帯は拠出382万5,000円に対して受給90万5,000円で、差し引き292万円のマイナスだ。このように、高所得世帯から低所得世帯に富が再分配されることによって格差は縮小する。
ジニ係数は格差の程度を示す簡便な指標で、ゼロなら「完全平等(全員が同じ所得)」、1なら「完全不平等(1人がすべての所得を独占)」で、ジニ係数が0.5を超えると格差が大きいとされ、南アフリカや南米のブラジル、コロンビアなどがこの水準になる。
それに対して日本は、23年の調査で再分配前のジニ係数は0.5855で、それが再分配によって0.3825まで縮小している。これはアメリカ、イギリス、韓国などよりも低く、スウェーデンやデンマークなど北欧諸国よりも高いので、日本は「経済格差が中くらいの国」になる。
次の疑問は、「日本社会で格差は拡大しているのか」だろう。所得のジニ係数は、「報告書」を時系列で比較することでその推移を知ることができる。それをまとめたのが【表】だ。

再分配前所得のジニ係数は17年を例外として一貫して上がっており、11年の0.5536から23年の0.5855へと12年間で5.8%上昇している。それにともなって再分配後のジニ係数も、同期間で0.3791から0.3825へと0.9%上昇した。「格差」とは一般に再分配後のジニ係数のことだから、12年間で0.9%(年率0.07%)の上昇を「所得格差が拡大している」とするのは無理があるだろう。
それでも「再分配前所得のジニ係数は上がっているではないか」と思うかもしれないが、このデータは年齢の効果を考慮していない。20代のときはみんな貧乏でも、年齢とともに才能、努力、運などによって所得の差は開いていくだろう。すなわち、社会全体が高齢化するにつれてジニ係数は自然に上がっていく。
実際、再分配前の世帯員の年齢階級別ジニ係数は、最も低い20~29歳の0.2997に対し、75歳以上では0.7201にもなる。ほとんどの高齢者が年金のみで生活する一方、一部の高齢者が株式や不動産からの収入、あるいは働いて得た収入などで、全体の所得の大半を得ているわけだ。
そこで「報告書」では、21年調査と23年調査を年齢を調整して比較している。調整前のジニ係数は21年が0.5700、23年が0.5855で、2年間で2.7%上がっているが、高齢化の効果を調整すると23年のジニ係数は0.5765となり、21年(0.5700)とほとんど変わらなくなった。
以上のように、すくなくとも所得においては、「日本の格差が拡大している」とはいえない。
みんなが平等に貧しくなった
誰もが「格差拡大」を叫ぶなかで、「日本の格差は拡大していない」というのは常識に反するが、他の調査でも同じ結果が出ている。
過去30年間の給与所得の推移を見ると、2020年の金額で標準化した中央値は約400万円、上位10%は900万円、上位1%は1,600万円でほとんど動きがない。
さらにこの調査では、給与の中央値が30年間で9%も下落したことが示されている。長期的には賃金は増えていくはずだが、「失われた30年」のあいだ、日本の平均的なサラリーマン/ウーマンが受け取る給与は逆に減っていたのだ。
ところがそれでも、実質GDPは17%増大し、国民所得に占める雇用者報酬も約70%で安定していた。給与の中央値が減っているのになぜ年率約0.5%の所得成長が実現したかというと、世帯主の賃金が低下したことで、家計が働き手を増やしてそれを補おうとしたからだ。その結果、共働き世帯の割合は2000年の約4割から直近の6割弱まで高まっている(楡井誠「分配の起点は経営者の競争」日本経済新聞26年3月23日)。
税務データと世帯調査の個票データを組み合わせた純国民所得で日韓英米独仏6カ国の上位1%層の所得シェアの推移を比較した研究でも、1980年以降、上位所得シェアはアメリカをはじめ各国で上昇傾向にあるのに対し、日本は逆に下がっている。
2019年の数値では、上位1%の所得シェアはアメリカが19%、韓国が16%に対して、8%の日本はほぼ最低水準だ。上位0.1%ではシェアの低下はさらに際立ち、日本が「スーパーリッチが少ない国」であることを示している(森口千晶「機会の平等政策の軸足に」日本経済新聞26年3月24日)。
日本にも「格差拡大」を批判するひとがたくさんいるが、実は日本こそが理想的な「格差の小さな国」だった。とはいえ、これは喜ばしいことばかりではない。突出した富裕層が少ないということは、自らの才能や能力を生かして大きな成功を手にすることが難しい社会であることを表してもいるからだ。
これらのデータをひと言で要約するなら、「日本ではみんなが平等に貧しくなったことで、格差が拡大しなかった」になるだろう。
AIによって
エンジニアの職は増えている
AI(人工知能)の急速な進歩が社会を大きく変えつつある。いずれAIエージェントがホワイトカラーの仕事の大半を代替できるようになり、大量失業の時代が訪れるともいわれる。実際、シリコンバレーのテック企業は、AIが高度なプログラミングを行うようになったことでエンジニアの解雇を進めており、今年だけでも9万人以上が離職したと報じられた。
ところが奇妙なことに、それにもかかわらずアメリカではエンジニアの求人は増え、収入も上がっている。4月の求人は27万件超で3年ぶりの高水準となり、テック業界の失業率は3.5%まで低下した。
アメリカのエンジニアの収入は、全国平均で19万ドル(約2,900万円)、新卒でも14万ドル(約2,100万円)で、シリコンバレーになると平均で27万ドル(約4,100万円)、上級職で40万ドル超(約6,000万円)とされる。
しかしこれは考えてみれば当たり前で、AIが引き起こす変化が大きければ大きいほど、ITや金融業だけでなく、すべての業界がそれに対応しなくてはならなくなる。社内に適した人材がいるところばかりではないだろうから、ほとんどは外部からの採用を考えるだろう。そうなれば、シリコンバレーの有名企業出身のエンジニアは引く手あまたにちがいない。
エンジニア以外の仕事でも同じことはいえる。公認会計士などの専門職から配管工などブルーカラーの仕事に転身して、以前よりも高給を得ているケースが大きく報じられたことで「ブルーカラー・ビリオネア」なる新語が登場したが、実際は専門職でも、AIを仕事に活かせる者とそうでない者の二極化が起きており、AIを有能なアシスタントにできれば収入を大きく伸ばすことが可能だ。AIが生産性を向上させているというデータも増えていて、近年の株価の上昇はそれを織り込んでいるともいえる。
格差の拡大が日本の“希望”
AIが雇用を増やすとまではいえないが、アメリカの失業率は4%台前半と歴史的にはかなり低い水準で、AIの導入でホワイトカラーの仕事の大規模な置き換えが生じているとはいえない。とはいえ、「AIは仕事を奪う前に、“キャリアの入口”を壊している」懸念はあり、アメリカでは企業が若手社員を新たに採用しなくなる傾向が出ているようだ。
ひるがえって日本では、人類史上未曽有の超高齢社会になったことで、若者の数は減り、高齢者の数がどんどん増えている。需要と供給の法則から、少ししかないものは価値が高く、たくさんあるものは価値が低い。そうなれば、これからも若者の価値は上がり、高齢者の価値は下がる一方だろう。
さまざまな社会調査で、日本では子どもや若者の幸福度・生活満足度がきわだって高い(8割程度が「いまの生活に満足で幸福」と回答する)ことが知られている。「若者は日本社会の“右傾化”と“ネオリベ資本主義”に苦しんでいる」というのが常識になっているが、それに反するこの結果は、若者の価値が高騰していることから説明できるだろう。
人口減と高齢化は国内マーケットの縮小を招き、日本経済が低迷する大きな要因となったが、AIによってこれがアドバンテージに変わる可能性がある。初級ホワイカラーの仕事がAIに置き換えられても、放っておけば社内は高齢者ばかりになってしまうので、企業は新卒の採用に必死になるだろう。日本では若年層の失業率が上がる未来は想像しづらい。
こうして採用された若者は、やがて仕事でAIを使いこなすようになり、生産性を上げて高い収入を得るようになる。このようにして「所得格差」が拡大していくことが、「みんなが平等に貧乏になる」という現状から抜け出すための、この国の“希望”ではないだろうか。
<PROFILE>
橘玲(たちばな・あきら)
2002年、国際金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。同年、「新世紀の資本論」と評された『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』が30万部を超えるベストセラーに。06年『永遠の旅行者』が第19回山本周五郎賞候補。『言ってはいけない 残酷すぎる真実』で2017新書大賞受賞。新刊に小説『HACK』。









