スナックバー付きギター弾きの今

大さんのシニアリポート第159回

 運営していた高齢者の居場所「サロン幸福亭ぐるり」(現在「サロン幸福亭」と改名して存続)はこの8月13日で19年目に入る。オープン当初人気のイベントは月一回開催した飲み会だった。そこでは私の弾く拙いギターで昭和歌謡曲を全員で熱唱した。高齢者にとって大声を出すことは健康上最高のチャレンジだろう。高齢者の居場所で大活躍のギター。実はそれが高齢者の心を癒す最高のツールであると知ったのは、不思議な本に出会ったからだ。

一台のチェロとギターの
生音が意味するもの

 その本というのは、『シューベルトの手当て』(クレール・オペール著 鳥取絹子訳)。「2012年4月、パリの認知症患者のための老人ホーム。一人の入居者が、包帯の交換の痛みに悲鳴をあげている。看護師たちが格闘するかたわらに響くチェロのやわらかな音色。クレールがシューベルトを弾きはじめると、患者は急に静かになり、看護師たちに身をあずける。老人はその後も、クレールのチェロ演奏があるときに限って、つらい処置を受け入れるようになった。音楽が痛みをやわらげ、症状を緩和したのである」「患者の痛みが10%から50%軽減されることだ。また患者の不安解消のプラス効果は90%近く、看護師へのプラス効果は100%」。

チェロ    作者のクレール・オペールはチェロ奏者、アートセラピスト、作家である。音楽が緩和医療の一部を担うという好事例で、クレール・オペールはこの音楽療法を「シューベルトの手当て」と呼んでいる。音楽を聴かせることは精神的ストレスの改善も含めて画期的な成果を上げた。つまり、それまであらゆる看護のスキルを駆使しても叶わなかった困難なケアが、たった一台のチェロの生演奏によって患者の心の奥底にあった安らぎとゆとりを目覚めさせたというのだ。「音楽療法」という緩和医療が彼女の手によって証明された。

 チェロの生音を間近で聴いたことがあるだろうか。チェロは人間の声に一番近い弦楽器だ。地鳴りのするような豊かな音から、繊細で温かみのある音を出すことができる。間近で聴くチェロの波動が直接身体に食い込んでくる。誰でも間違いなくチェロの音色に取り込まれてしまうだろう。音楽療法という意味では、ほかの楽器より遥かに強力なツールになり得る。

 それに比べて音量の少ないギターではあるものの、もしかすると私の弾く生ギターも、居場所に集まる高齢者の心を癒し続けてきたのではないかと思ったりもする。振り返ってみると、これまでもそれらしい感動の場面に出くわした経験がいくつもあった。そこには必ずといっていいほどギターがあった。

フォークソングブームの
真っただ中にいたが…

イメージ    私は1944(昭和19)年生まれの82歳。1963(昭和38)年の上京当時、ジョーン・バエズやブラザーズ・フォア、PPM、ボブ・ディランなどの洋物フォーク全盛期で、やがて学生運動が激しさを増すと「フォークの神様」といわれた岡林信康などの和製フォークシンガーが続々と登場。同時期に森山良子、ザ・フォーク・クルセダーズなどのカレッジフォークも全盛を極めた。新宿紀伊國屋本店2Fにあった昭和楽器店でギターを買った。しかしフォークを愛する同好の士にも恵まれず一時お蔵入り。出版社に入社時、中高生向け音楽雑誌「music echo」に配属され、巻末の楽譜を担当したことがきっかけでギターが復活した。これがきっかけとなり、その後の感動的な場面に遭遇することになったのである。

 友人に誘われて東京・新宿三丁目にあったスナックバー「漁火」(今はない)に行った時のこと。偶然持っていたギターケースを目にしたママの強い要望で、弾き語りをすることになった。知らない人の目の前で演奏などした経験がない。第一知っているコードといえば、C、F、G7とAm、Dm、E7とEmくらい。もっともカポタスト(指板に装着して容易に移調を可能にする小道具)を駆使すれば、ほとんどの曲が上記の簡易なコードで演奏は可能だった。

 その場にいた客も一緒に歌うという条件で『誰か故郷を想わざる』を歌った。その歌を選んだのは、客層が中年から初老の人たちだったからだ。弾き語りの途中から異様な雰囲気になった。ざわめきだしたのだ。すすり泣く人もいて、ママもうっすらと涙を流しているのを見た。演奏する本人には何が起きたのか理解できない。ただ間違いなく客は私の弾くギターと歌声に感動したのだ。実はこのことが私の仕事に影響する事態になった。

ギター弾きがいない。呼んで来い!

イメージ    ママから会社に電話が入った。「ギター買ってくるように」という内容だ。翌日、お茶の水にある下倉楽器店でギターを買い求めた。八千円だった。それをママに渡すとサントリーのウイスキーホワイトを二本手渡された。感謝の意味だと解釈したが、八千円はもらえなかった。それからカウンター内にある椅子に座れと命じられた。そこでギターを弾けという。私の飲み食いは無料。それを客に付けた。歌える店があると評判を呼び、店は大いに賑わった。雑誌の編集作業の1つに校了というのがある。印刷工場で行われる出張校了が普通だ。つまり軟禁状態なのだから当然スナックには行けない。深夜の編集部の電話が鳴りやまない。たまたまいた他部署の編集者が電話に出る。激しく叱責される某編集者。翌日私にクレームが…。

 当時の「漁火」は大陸からの帰還兵や軍属、町工場の工場主やサラリーマンなどで賑わっていた。私が弾くギターで『上海帰りのリル』『国境の町』『リンゴの唄』など主に戦前の歌謡曲をうたった。歌に飢えていたというより、生歌に飢えていたのだ。たどたどしく流れるギターの生音と、どことなく哀愁を帯びた歌声が客の心に刺さったのだ。チェロの生音で患者の心を癒したクレール・オペールの演奏を「シューベルトの手当て」と呼ぶなら、さしずめ「流行歌の手当て」か。

イメージ    私の弾くギターで昭和歌謡を「サロン幸福亭」の参加者全員で歌って好評を得たことが地域に知られ、次第に市内にある高齢者のサークルや高齢者施設などからも声がかかり、ギター持参で駆けつけたことも少なくなかった。私を必要としている時代があった。ところが居場所にカラオケセットがマニアの方から寄贈された。それ以来、私のギターの出番はパタリと途切れ、誰一人として「たまには亭主のギター伴奏で歌いたい」といってくれる奇特な来亭者はいなくなった。

木枯し紋次郎が私のギターで熱唱した

イメージ    高齢者の居場所で来亭者の心を癒す分にはいいが、こんな出会いもあった。私にすれば生ギターが自分の心を凍らせた事件だった。渋谷駅から10分ほどの距離に仁丹ビルがあった。そこの地下一階にあったバーによく通っていた。店にはクラシックギターがあり、誰でも自由に弾くことができた。当然私も弾いた。あるとき、いつものように私がギターを弾き、居合わせた客がうたっていた。そこに5、6人の体格のいい人たちが入ってきて、私の周辺に座った。当然私の弾くギターで歌った。場が急速に盛り上がりを見せた。帰り際、私の隣でうたっていた男が私に一枚の紙きれを手渡した。初めて男の顔を見て驚いた。そこに立っていたのは木枯し紋次郎、つまり中村敦夫だった。ということは一緒に入店した人たちは「ピラニア軍団」だったのだ。手渡された紙切れを見てさらに驚いた。そこには「○○(店の名前)で僕の誕生会をいたします。ぜひご出席いただき、ギターを弾いていただきたい」とあり、最後に、「音楽関係者も出席予定です。紹介させていただきたいものです」とあった。とんでもない。自分のスキルは自分が一番よく知っている。参加していたら大恥をかいただろう。行かなくてよかったと思っている。でも、あのとき私のギターで中村敦夫とピラニア軍団が熱唱したということは、軍団を癒したことになる。「流行歌の手当て」が功を奏したといっていい。

 「自閉症の若者、認知症の高齢者、終末期の患者たちに寄り添い、彼女はチェロを奏でつづける。音楽がもたらした奇跡の物語」。同本のキャッチコピーです。


<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)

 1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(講談社)『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』『「陸軍分列行進曲」とふたつの「君が代」』『瞽女の世界を旅する』(平凡社新書)など。

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