福岡大学名誉教授 大嶋仁氏
先に言及したモーガン氏には、「虐げられた民族」の記憶が流れ込んでいる。氏の「白人文化」に対する感情には、憎しみさえあるかもしれない。アメリカの「白人」政府が先住民を歴史から消し去ろうとしたことは、氏にとって決して過去のことではなく、現在もアメリカが世界各地で行っていることなのである。日本がそのアメリカに、たとえ敗戦したにしても、「一矢を報いようとした」ことは、氏にとっては空前の快挙であったに違いない。
氏が日本の戦争を一種の宗教戦争に見立てていることについては、すでに述べた。氏がそのように思うのは、氏がカトリック教徒であるからかもしれない。過去のカトリック教は、今では非難の対象となる「聖戦」思想をもっていた。その考え方があればこそ、氏は「大東亜戦争」を賛美するのである。
氏がカトリック教徒であることと、氏がルイジアナ出身であることには関係がある。ルイジアナはもともとカトリック国フランスの植民地だったからだ。カトリック教はアメリカの主流宗教ではない。J・F・ケネディは、アメリカで最初のカトリック教徒の大統領だった。そしてその彼は、凶弾の犠牲者となっている。
モーガン氏が日本の街頭でプロライフ活動(受胎から死までの生命活動を何よりも尊重する活動)を行っていることは、氏の日本愛ほど知られていない。これもカトリック的倫理観の表れである。かつて日本で「たまごっち」が流行ったとき、カトリック総本山のローマ教会が「こんな遊びは子どもによくない」と難色を示したことを思い出そう。
プロライフ活動をする氏を見ると、アメリカ人でありながら「非=白人」の立場を真っ先に考える現ローマ法王レオ14世が思い出される。この法王はアフリカ系アメリカ人の血を引く「準白人」であり、長くアメリカを離れ、南米ペルーの貧困層とともに暮らした人なのだ。法王に選ばれて公の前に立ったその最初のあいさつで、彼は真っ先にペルーのチクライヨのカトリック信者たちにスペイン語で祝福の言葉を送っている。アメリカ人である以上に、ペルー人としてのアイデンティティーを全世界の前で示したのだ。
モーガン氏に戻ると、氏が日本の基層文化を愛したラフカディオ・ハーン(=小泉八雲)などとはまったく異なる角度から日本を愛していることがわかる。ハーンは「失われてゆく日本文化」を哀惜する人だったが、氏の場合は、日本人をアメリカから「自立」させたいという願望のほうが勝っている。その情熱は、日本をアメリカ式民主国家にしようとしたマッカーサーの情熱にも似たところがあり、日本を「もう一度立ち直らせたい」という願いが籠められているのである。
マッカーサーは凱旋将軍の態度で、自らの描いた青写真に沿って上から日本改造を行おうとした。これに対して、一介の教師でしかないモーガン氏は、日本人の「独立精神の欠如」に苛立って見える。「日本人よ、目覚めよ。もっと、自分自身を愛せ!」 そう叫んでいるのである。
氏はアメリカ人であるだけに、アメリカ国家がさまざまな手を使って世界を「我が物」にしようとしているのが我慢できない。それだけに、そういうアメリカに無批判でい続ける日本政府と日本国民に苛立つのである。
この思いは、ワシントン在住40年という日本人の政治評論家、伊藤貫のスタンスに近い。伊藤もまたアメリカの外交政策を知り尽くしているがゆえに、日本に対して「アメリカ依存症から立ち直れ」と叫んでいる。かつて伊藤とモーガン氏の対談を見たことがあるが、面白かったのは、モーガン氏はもちろんのこと、伊藤にも日本を歴史的にという以上に、哲学的に、ないしは宗教的に見ていることだった。
モーガン氏には、本人が意識しているかどうかはわからないが、日本人に精神改革を迫る「宣教師」の風がある。そのせいか、氏の言っていることは「正論」であるにもかかわらず、案外に日本人の心を揺さぶっていないように見える。私自身は氏の真剣な態度に感動もし、こういう人が日本人に日本語で語りかけてくれることをありがたいとも思っているが、その影響力はイマイチのような気もする。これを「馬の耳に念仏」というべきか、「豚に真珠」というべきか。
最後に、モーガン氏が高市早苗をどう見ているかを紹介しておく。氏を知る人は驚かないだろうが、高市を「詐欺師のなかの詐欺師」と見ており、「腐った自民党におだてられ、腐った日本の戦後の典型として、アメリカ政府の子犬になりさがっているのに、そのことを少しも自覚していない人」と糾弾している。前出の適菜氏の見方と、このモーガン氏の見方は隔たっていない。モーガン氏にとっても、高市は「日本病」の兆候の最たるものなのである。
さて、モーガン氏の言は、かつて『日本人は死んだ』の著者として話題になったアメリカ出身のユダヤ教ラビ、マーヴィン・トケイヤーの言とも共鳴する。トケイヤーによれば、戦前の日本人には「魂」があったが、戦後の日本人は自分たちの精神的伝統を忘れ、「魂のない民族」に成り下がったのである。伝統は一度失われると取り返しがつかない。伝統を継承するには教育しかない。ところが、戦後の日本はその教育を疎かにし、「生きた屍」を生み出したというのだ。
とはいえ、トケイヤーはモーガン氏と違って、政治には口出ししなかった。ユダヤ教のラビであったから、精神文化のほうに眼が行ったのである。しかし、現在の日本の政治の在り方が日本の精神文化の失墜の産物であると考えれば、2人の主張にはつながるものがある。
(つづく)









