福岡城天守台に見えてきた本格的な建物の痕跡~福岡市が初の発掘調査成果を報告

 福岡市は8月29日、福岡市博物館(福岡市早良区)の講堂で「福岡城天守台 市民向け発掘調査報告会」を開催した。2025年度に初めて実施した福岡城天守台内側の発掘調査について、その成果を市民に報告するもので、市経済観光文化局文化財活用部史跡整備活用課の大塚紀宜課長が、調査で確認された遺構や出土品などを写真や資料を交えて解説した。報告会終了後には、桐文瓦や巴文瓦、和釘などの出土品も公開された。

報告会の様子

 25年度に行われた発掘調査では、天守台内側の「穴蔵」と呼ばれる部分を対象に、約34m2の調査が行われた。期間は同年6月末から12月25日までの約6カ月。福岡城ではこれまで80回以上の発掘調査が行われてきたが、天守台内部を対象とした調査はこれが初めてだった。調査では、建物の基礎となる礎石・根石や束石とみられる石のほか、瓦、和釘などが確認され、これまでほとんど分かっていなかった天守台内部の姿を考える手がかりが得られた。

大型建物を支えた可能性示す強固な基礎

 まず注目されたのが、天守台内に並ぶ礎石と、その下から確認された「根石(ねいし)」である。礎石は建物の柱などを支える基礎となる石で、根石はその礎石が沈下したり傾いたりしないよう、下部を安定させる役割をもつ。天守台の穴蔵には調査前から40個の礎石が並んでいたが、それらが江戸時代からその位置にあったものなのか、それとも後世に並べ直されたものなのかは分かっていなかった。

 今回の発掘調査で礎石の下から根石が確認された。つまり、表面に礎石だけを後から置いたものではなく、建物を支えることを前提に、根石を積み、そのうえに礎石を据えるという本格的な基礎工事が行われていたことが分かった。さらに根石を掘り下げたところ、約50cm下まで同様の石が続いていることが確認された。安全上の理由から、それより深い部分については調査をいったん止めたため、実際にどこまで続いているかはまだ分かっていない。ただ、通常の建物に比べてもかなり厚い根石が設けられているという。
※報告会では約50cm下まで掘り下げられた状況の画像も紹介されたが、公開されている報告書にはその画像は含まれていない。

 大塚課長は、根石を厚く設ければ上からの荷重を分散し、基礎を安定させることができると説明。そのうえで、こうした強固な基礎について「非常に大きな建物を想定して基礎工事を行った可能性」があるとの見方を示した。

 現段階でこれだけをもって天守が存在したと断定することはできないが、天守台上に相応の規模の建物を建てることを想定していた可能性を示す重要な成果といえる。

出所:「福岡城天守台調査の経過報告について」(福岡市、令和8年2月)
出所:「福岡城天守台調査の経過報告について」(福岡市、令和8年2月)
出所:「福岡城天守台調査の経過報告について」(福岡市、令和8年2月)
出所:「福岡城天守台調査の経過報告について」(福岡市、令和8年2月)

「束石」発見、穴蔵に床があった可能性

 2つ目の成果が、礎石と礎石の間から見つかった小さな平石である。長さ約30cm、幅約20cmで、市は建物の「束石(つかいし)」とみている。束石とは、床などを受ける横木を支える短い柱の基礎となる石だ。通常の柱が礎石によって支えられるのに対し、床下などに設けられる短い柱を束石が支えることで、床組みにかかる荷重を補助する。

 大塚課長によると、今回確認された石の周囲では土の色が変わっており、一度穴を掘った後、石を含む土を入れて埋め戻したような痕跡も確認された。このことから、たまたまその場所にあった石ではなく、地盤を固めたうえで意図的に据えられた可能性が考えられている。もしこれが床を支える束石であることが確認されれば、穴蔵の内部に床が張られていた可能性が出てくる。

 ただし、今回見つかった束石とみられる石は1カ所のみであり、建物全体の構造を復元できる段階ではない。今後、ほかの場所でも同様の束石が確認されるかが、穴蔵内部の床や柱の配置を考えるうえで重要になる。

「名島引け」との関係示す桐文瓦

 今回の調査では建物基礎にかかわる遺構ばかりでなく、上部の建築物にかかわる遺物も確認された。その1つが、屋根の軒丸瓦と推定される「巴文(ともえもん)」と「桐文(きりもん)」の瓦片だ。巴文の瓦片は福岡城内で過去にも見つかっているが、江戸時代を通じて広く用いられた紋様のため、それだけで年代を絞り込むことは難しい。一方、注目されるのが桐文瓦である。
 

報告会終了後に公開された桐文瓦(縦5cm程度)、記者撮影
右下は名護屋城出土の桐文瓦、出所:「福岡城天守台調査の経過報告について」(福岡市、令和8年2月)

 桐文は豊臣秀吉との関係が深い紋様で、大和郡山城(奈良県)や肥前名護屋城(佐賀県)など豊臣政権と関係の深い城郭でも発掘されている。福岡市内では名島城跡(東区)からも同様の桐文瓦が出土している。名島城は小早川隆景・秀秋らの居城で、秀秋は秀吉の正室高台院の甥で小早川隆景の養子となった豊臣家の一族であり、その関係から桐文瓦が使われていた可能性がある。関ヶ原の戦いの後に筑前国を与えられた黒田長政も当初、名島城に入ったが、その後、福岡城の築城に伴って名島城は廃城となり、石垣や建物などの資材が福岡城へ移されたという記録が『筑前国続風土記』にある。いわゆる「名島引け」である。

 大塚課長は、今回発見された桐文瓦の破片について、名島城から運び込まれ、福岡城築城時の建物に再利用された可能性が高いと説明した。

 桐文瓦そのものが天守の存在を直接証明するわけではない。しかし、「名島引け」に由来する瓦片が天守台から出土したことは、福岡城築城初期に瓦を伴う建物が天守台周辺に存在していた可能性を考える有力な手がかりとなる。

小さな「和釘」が示す建築工事の痕跡

 4つ目の成果が、江戸時代の建物に使われたとみられる和釘である。現在の釘と異なり、当時の和釘は鍛冶職人が一本ずつ製作する貴重な建築資材だった。そのため建物を解体する際には、釘も回収して再利用することが一般的だったという。そのなかで、回収されず天守台に残った釘が今回の発掘で確認された。

出所:「福岡城天守台調査の経過報告について」(福岡市、令和7年12月)
出所:「福岡城天守台調査の経過報告について」(福岡市、令和7年12月)

  出土した釘は長さ約6cm。建築用の釘としては比較的小さく、大きな柱や梁など主要構造材をつなぐ大釘とは性格が異なる。このため大塚課長は、建物の骨組みを組み上げる段階ではなく、その後の内装などの工事に使われた可能性を指摘した。

文献と発掘成果が接近 「天守」の実像解明へ

 今回の報告で示された4つの成果は、それぞれ単独で「天守が存在した」ことを証明するものではない。ただ、強固な基礎、床組みを示唆する束石、屋根や築城時期を考える手がかりとなる瓦、建築の内装段階で使われた可能性がある和釘と、建物の各部分にかかわる遺構・遺物が重なって確認されたことに今回の調査の意味がある。

報告会の冒頭では、慶長7年(1602)と推定される2月15日付で黒田長政が家老の黒田一成に宛てた書状(三奈木黒田家文書)も紹介された。

<翻刻>
天守を此月中に柱立可仕候間、其通大工奉行ともへかたく可申聞候

<現代語訳>
天守の柱を今月中に立てなくてはならないのだから、そのように大工・奉行たちへ厳しく指示するように

 この書状から、天守の柱立てを行うよう指示するところまで築城工事が進んでいたことが文献上知られていたわけだが、今回の発掘では、天守台に本格的な建物が存在した可能性を検討するための考古学的な材料が初めてまとまって得られた。これらの遺構・遺物が、書状に記された「天守」の建設とどのように結び付くのかが、今後の重要な検討課題となる。

 大塚課長は質疑応答において、学術的な調査として現段階でいえるのは「建物に十分関連する遺構とか遺物がこの天守台のところにある」ことまでだとし、あくまでも慎重な姿勢を示しつつ、今後の発掘と研究を通じてかつての福岡城の姿を明らかにしていく考えを示した。

 福岡城最大の謎の1つである天守の実像は、なお明らかになっていない。しかし、今回の発掘によって、文献と考古資料を突き合わせながらその実像に迫るための新たな手がかりが得られた。継続中の調査から、今後どのような手がかりが得られるのか注目される。

10月18日まで出土品を一般公開

 出土した桐文と巴文の瓦片と和釘は、9月1日から10月18日まで福岡市博物館常設展示室で一般公開される。

<INFORMATION>

福岡城天守台発掘調査 出土品一般公開

〔出土品公開期間〕
9月1日(火)~10月18日(日)
〔出土品公開時間〕
午前9時30分~午後5時30分(入館は午後5時まで)
〔出土品公開場所〕
福岡市博物館 常設展示室
※出土品の観覧には常設展示室の観覧料が必要。

【寺村朋輝】

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