九州古代史を思う(3)
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徐福と航海と船
徐福は早速、大群が移動するために必要な船の造営に取り掛かる。「中国の科学と文明」という書物の航海技術の中で、「徐福の航海と船」について、大型帆船桟が利用された可能性を述べている。
1975年に中国福洲連江県の浦江という小さな港で、古船が発見された。船の材質はクスで根の部分を含む大木をくり抜いた丸木船で、中央から少し後方の船底部分に突起を彫り残し、長方形のマストの台座として使用されたと考えられている。
船体の長さは7.1m、幅1.6mで訓練船のカッター船とほぼ同じ大きさで、櫓(ろ)と帆を使用して推進させる方法を採っていたようだ。ここで注目したいのが、丸太と筏(いかだ)を組合わせたものだから、水深が浅い所でも乗り入れられる点である。
中国では前漢時代にこれだけの丸木船が存在していたのである。この出土船は福洲の福建省博物館に展示されている。古代壁画に出てくる船、弥生土器に描かれた船など、古代の造船技術について論議すればきりがないが、船の積載能力としては一艇に50人位づつ乗せ、3カ月分の食をも一緒に積み得たという記載があり、この時代の倭国と中国との交流を可能にする船は存在したことがわかる。
基本的には帆船であってジャンク形式の初期の形態であったろうし、双胴船を含む各種の型が建造された事をうかがわせる。徐福の船団を想像してみると、3,000人を50人位ずつ乗せたと仮定すれば、60隻以上が必要で、さらに百職の職人、五穀の種をも含めると、おびただしい船数となるだろうことは容易に想像できる。1カ所で同時期に建造する事は不可能なので、各地複数の港で建造させ、出航も各地の港から船出する事となり、すべて整って一斉の船出とは行かない状態だったと想像できる。
当時の航海術は海流の影響や季節風を利用した航海で、徐福は各船団の責任者に方向と進路の指示はするが、正確な海図のような書類としての資料は残さなかった。司馬遷の記述にも、「徐福がすでに東方へ何度も往来し、豊な土地がある事を知っていて旅立とうと計画をたてていたのだ」と示唆している。
徐福は当初より、東方の地に自分の国を建国し王となる事を夢みて、いかにして始皇帝をだますかに日々計画を練りに練り、方士として弁を左右にして始皇帝には無論の事、船団の長にさえ目的地の所在は明らかにしなかった。
出航の場所、時期も異なり、目的地も東方のみで定かでないから、多数の船団はただ海流と風に乗って東方を目指しただろう、故に日本の各地にしかも黒潮が洗う地に多く徐福渡来地の伝説が点在するゆえんであろう。
古代航海術は、沿岸航法が主であり、多数の船団は岸を見失わない様にしながら、まず、北東に進み、山東半島から朝鮮半島に進め、朝鮮半島の西海岸を追い風の時は帆走で、逆風の時はカイを漕いで南下し、対馬海峡を横断し九州北岸へ着く。
中国にも徐福出航の地というのがいくつも残っており、また準備ができた順に出発したと考えられ、出発日を祭日として2月19日、6月19日、10月19日として祭日として祝っていることが文献に述べてある。このように出航時期が多岐にわたって行われている事が立証でき、日本側にも多くの地に徐福船団到来の伝説がある事は、すでに述べたように、九州各地・山口・三重・和歌山・静岡・青森、他に伊豆諸島・小笠原諸島・沖縄諸島、さらにミクロネシア、ハワイ、アメリカ大陸西岸にまでも見られる事も理解できる。
(つづく)
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