物語「恩讐の彼方に」――「HY戦争」のホンダとヤマハ発が提携(後)
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女性用スクーターが大ヒット
両社の蜜月関係を断ち切り、ホンダに宣戦布告したのはヤマハ発の2代目社長の小池久雄氏である。源一氏の側近中の側近だ。小池氏に追い風が吹いた。1977年に、スカートでも両足をそろえて乗れるステップスルー式のスクーター「パッソル」を発売。八千草薫さんをCMに起用して、大ヒットを飛ばした。ファミリーバイクの登場は、二輪車市場を一変させた。
女性用スクーターの大ヒットで、遠かったホンダの背中が近づいてきた。79年上半期累計の出荷台数では、ファミリーバイクに限れば、ホンダのシェア34%に対してヤマハ発は49%と、初めて優位に立った。小池氏は、「チャンスが来た。オートバイ業界の盟主になる」と「ホンダ打倒」を宣言した。
80年、ヤマハ本体の社長である河島博氏が解任され、川上源一氏が社長に復帰した。ヤマハを追われた河島博氏は(株)ダイエー副社長に招かれ、「V革」と呼ばれる劇的な業績回復を成し遂げた。
ヤマハが河島博氏を解任したことで、河島喜好氏が率いるホンダは、ヤマハ発の本気を感じた。ホンダは四輪車に軸足を移したとはいえ、発祥の二輪車で負けるわけにはいかない。
在庫の山を築いたヤマハ発はHY戦争に完敗
かくして、「HY(ホンダ対ヤマハ発)戦争」の火蓋が切って落とされた。両社の営業部隊は、血を血で洗う闘いに突入した。相手に対する誹謗中傷は当たり前。値下げ合戦、販売台数を水増しするために代理店への押し込み販売へと、闘いは泥沼化した。
勝負を決めたのは、ホンダの「GOGO作戦」だった。新型バイクを次々と投入。同時に、旧型バイクの値段を一気に引き下げた。ホンダは18カ月の間に、60だった車種を113に拡大、前代未聞の新製品ラッシュで、ヤマハ発の挑戦を退けた。
ヤマハ発は工場、代理店に在庫の山を築いた。このままでは存亡の危機に陥る――。83年2月10日、ホンダ社長の河島喜好氏とヤマハ発社長の小池久雄氏が日本自動車工業界で会談。小池氏が頭を垂れ、戦争の終結を申し入れた。“敗軍の将”小池氏は引責辞任した。
HY戦争はヤマハ発の完敗だった。二輪車の国内の出荷台数は、ファミリーバイクが出現するまでは年間120~130万台だった。HY戦争の敗北で、ヤマハ発は120万台の在庫を抱えた。全メーカーの1年分に匹敵する在庫だ。
HY戦争は両社の明暗を分けた。ホンダは自動車業界の「世界のHONDA」へと駆け上がっていく。ヤマハグループは業績の長期低落の端緒となった。60~70年代に燦然と輝いていたヤマハ発が、これ以降、過去の栄光を取り戻すことはなかった。
さて、こんな複雑な因縁が絡み合うHYが、うまく握手できるのだろうか――。
(了)
【森村 和男】法人名
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