AI時代の労働社会 日本型雇用とジョブ型、タスク型

労働政策研究・研修機構
労働政策研究所長 濱口桂一郎 氏

労働政策研究・研修機構労働政策研究所長 濱口桂一郎 氏

 2025新春特別号に『日本の中小企業とジョブ型雇用』を寄稿したが、そのなかでも力説したように、近年政府や経済団体で新規なものとして流行している「ジョブ型」とは、実は世界的に見れば産業革命期以来の古くさい仕組みである。また、日本の文脈でも、今から60年前の高度成長期には職務給が流行の最先端であった。そして、今さらながらにジョブ型が持て囃されている今日の時代は、産業革命以来200年以上続いてきた欧米のジョブ型労働社会の基盤が、急速な人工知能(AI)の発達によって根底から覆されていくかもしれない時代なのである。本稿が、少しずつずれた議論になっている「ジョブ型」をめぐる労働社会論を、まともな議論に戻すためのヒントになれば幸いである。

ジョブ型雇用の起源 ローマの奴隷の賃貸借

 まず、ジョブ型は決して新しいものではなく、むしろ古くさいということを説明する。18~19世紀に近代産業社会がイギリスを起点に始まり、その後ヨーロッパ諸国、アメリカ、日本そしてアジア諸国へと徐々に広がっていったが、この近代社会における企業組織の基本構造が、ジョブに人をはめ込むジョブ型なのである。

 それに対し、人に仕事をあてがうメンバーシップ型の考え方は、日本で戦時期から終戦直後に打ち出され、高度成長期に確立し、1970年代半ばから90年代半ばにかけての約20年間には日本の経済パフォーマンスの源泉として持て囃されたが、その後は日本経済凋落の戦犯として批判の対象となっている古びた新商品である。

 ジョブ型雇用契約の源流はローマ法にある。ローマ法では物の賃貸借も労務の賃貸借もすべて同じ賃貸借という概念に一括していた。この労務の賃貸借がジョブ型雇用契約に発展していく。しかし、そもそもなぜローマ人は労務の賃貸借などという奇妙な概念を思いついたのだろうか。それを理解するためには、古代ローマ社会で最も重要な労働力利用形態は奴隷制であったということを思い出す必要がある。

 奴隷は生物学的には人間だが、法的には物であって法的人格を有しない。通常は自由人によって所有され、その指揮命令下で労務に服するが、それは法的関係ではない。奴隷の賃貸借というのも可能であり、法律的にはあくまでも物の賃貸借である。ただ、借りた物だから煮て食おうが焼いて食おうが勝手ではない。大事に使って傷をつけずに持ち主に返さなければならない。

 さてここで、奴隷を貸し出す主人と貸し出される奴隷が同じ人間だったらどうなるか? 主人としての人間が奴隷としての自分を賃料と引き替えに貸し出すというかたちになる。この貸し出す契約は対等の人格同士の契約であるが、貸し出された人が実際にやる作業は、奴隷がやるのと同じような借り主の指揮命令下での作業になる。

 今日の雇用契約には、この古代ローマの労務賃貸借以来の二面性が脈々と受け継がれている。二面性とはすなわち、法形式上はまったく対等な自由人同士の賃貸借契約であるという面と、実態的には主人が家畜や奴隷を使役するのと同じような支配従属関係の下に置かれるという面である。この二面性を矛盾なく統一しているのが、人間の労務をあたかも物であるかのように切り出して賃貸借契約の対象にするという法的手法である。

日本におけるジョブ型とメンバーシップ型の変遷

 日本近代史において、ジョブ型雇用システムは繰り返し流行してきた。とくに戦後は、1950年代~60年代にかけて、政府や経営団体は同一労働同一賃金に基づく職務給を唱道していた。今から62年前の63年、当時の池田勇人首相は国会の施政方針演説で「従来の年功序列賃金にとらわれることなく、勤労者の職務、能力に応ずる賃金制度の活用をはかるとともに、技能訓練施設を整備し、労働の流動性を高めることが雇用問題の最大の課題であります」と謳っていた。ところが日経連が69年の報告書『能力主義管理』で職務給を放棄し、見えない「能力」の査定に基づく職能給に移行した。

 70年代半ば~90年代半ばまでの20年間は、硬直的な欧米のジョブ型に対して日本型雇用システムの柔軟性が注目され、競争力の根源として礼賛された時代であった。エズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』がその代表だ。そのころの典型的な言説が、85年に開催されたME(マイクロエレクトロニクス)と労働に関する国際シンポジウムで、当時の氏原正治郎・雇用職業総合研究所長が行った基調講演に見られる。

 曰く:「一般に技術と人間労働の組み合わせについては大別して2つの考え方があり、1つは職務をリジッドに細分化し、それぞれの専門の労働者を割り当てる考え方であり、今1つは幅広い教育訓練、配置転換、応援などのOJTによって、できる限り多くの職務を遂行しうる労働者を養成し、実際の職務範囲を拡大していく考え方である。ME化の下では、後者の選択のほうが必要であると同時に望ましい」。

 当時は、欧米に対しジョブにこだわるから生産性が低いとか、日本型にすればすべてうまくいくといわんばかりの論調すらあった。

ジョブ型礼賛とメンバーシップ型批判の空虚さ

 ところが近年は、日本はメンバーシップ型ゆえに生産性が低いとか、ジョブ型にすればすべてうまくいくといわんばかりの議論が流行している。ジョブ型/メンバーシップ型が本質的に優れている/劣っているというたぐいの議論はすべて時代の空気に乗っているだけの空疎な議論に過ぎない。

 むしろ、メンバーシップ型の真の問題点は、陰画としての非正規労働や女性や高齢者の働き方との矛盾にある。いつでもどこでも何でも命じられたまま働ける若い男性正社員を大前提にしたシステムが、これら多様な働き手におよぼす悪影響については『若者と労働』『日本の雇用と中高年』『働く女子の運命』といった諸著作で詳述している。

 一言で言えば、メンバーシップ型雇用は(局所的には生産性が高いかもしれないが)社会学的に持続可能性が乏しいのだ。だからこそ、安倍政権下で働き方改革が行われたのである。正規と非正規の間の同一労働同一賃金にしろ、時間外労働の絶対的上限規制の導入にしろ、かつて持て囃された日本的柔軟性を否定して欧米型硬直性を求める復古的改革である。この点を的確に理解している人は数少ないように見える。決してジョブ型が前途洋々というわけではないのだ。

AI時代に揺らぐジョブ型社会の前提

 それどころか近年欧米では、200年以上にわたり確立してきたジョブ型労働社会そのものがAIを始めとする第4次産業革命で崩れつつあるかもしれないという議論が展開され始めている。欧米の労働社会を根底で支えてきたジョブが崩れて、その都度のタスクベースで人の活動を調達すればいいのではないかというわけである。

 そういう議論の集大成のような本が、2022年3月に出たジェスターサン&ブードロー『仕事の未来×組織の未来』(ダイヤモンド社、2023)である。本書の原題は「WORK WITHOUT JOBS」(ジョブなきワーク)であり、まさに古くさくて硬直的なジョブ型から柔軟なタスク型への移行を唱道する本である。皮肉なのは、著者はマーサー本社(※編注)の人で、翻訳はマーサージャパンであることだ。現在日本でジョブ型雇用を唱道している当のマーサーがそれを自己否定するような本を出しているわけである。

 本書はいうまでもなくジョブ型雇用社会に生きる人々を相手に書かれている。職務記述書(ジョブディスクリプション)に箇条書きのかたちでまとめられたガチガチの固定的な「ジョブ」(職務)を、雇用契約を結んだ従業員(ジョブホルダー)が遂行するという古くさいオペレーティングシステム(OS)を脱構築(デコンストラクション)して、 ジョブを構成する個々のタスクを、インディペンデント・コントラクター、フリーランサー、ボランティア、ギグワーカー、社内人材など多様な就労形態で遂行する仕組みに移行せよというのである。

 伝統的なジョブ型はなぜだめなのか。労働者の能力を職務と結びつけて判断し、職務経験や学位と無関係な能力を把握できないからだ。従業員の能力を丸ごと把握することができないからだ。そのため、そのジョブに必要な資格を有しているかいないかでしか判断できず、その仕事(個々のタスク)を遂行するにふさわしい人材を発見できないからだ。

タスク型社会の可能性と日本型雇用の対照

 というマーサー本社の人の議論を聞いていると、日本のメンバーシップ型はそうじゃないよといいたくなる。資格や経験よりも人格丸ごとを把握し、企業の必要に応じて適宜仕事を割り振っていく日本型を褒め称えているようにすら見える。いや実際、上記人材リストのなかの「社内人材」というのは、フルタイムの従業員であっても「人を職務に縛り付けず、自由な人材移動を可能にする」というものだから、まさに日本型である。

 とはいえ、似ているのはそこまでだ。マーサー本社の唱えるタスク型の本領は、伝統的なジョブという安定した雇用形態ではないさまざまな柔軟な就業形態で、タスクベースで人材を活用していこうというものであるから、ジョブ無限定でタスク柔軟型の代わりに社員身分がこの上なく硬直的で、社員である限り何かもっともらしい仕事をあてがわなければならない日本型とは対極的であるともいえる。

 こういう議論が流行る背景にあるのはいうまでもなく情報通信技術の急速な発展で、本書でもITやAIによって仕事の未来がどうなるかというテーマが繰り返される。近年の労働経済学の議論を踏まえて、あるジョブを構成するタスクのすべてが機械に代替されるわけではなく、代替されるタスクと代替されないタスクがあるのだ、というところから、旧来のジョブという枠組みにこだわるのではなく、機械に代替されない人間用のタスクを柔軟に働く人々に配分していこうという議論につながっていくわけである。

社会的フィクションとしてのジョブとワークOSの限界

 本書を読んでいくと、改めてジョブ型雇用社会というのが「ジョブ」という社会的フィクションを実在化し、皆がそれに振り回されている社会だということがよくわかる。そういう社会的フィクションの実在性が希薄な(その代わり「社員」という社会的フィクションがどうしようもなく強烈な)日本社会から見ると、それがおかしくもありときにはうらやましくもあったりする。次に引用する一節などは、いくら繰り返してもなかなか理解されないジョブ型雇用社会というものの本質を、否定的なまなざしで見事に描き出している。

・・・研修プログラムは、従業員が、特定の職務(ジョブ)に就くための準備をすることに重点が置かれている。人材管理システムには、個人がこれまで就いてきた職務と職位(タイトル)が記録されており、それを見れば個人の学歴と職歴がわかる。

 一方、学校などの教育機関は伝統的に、授与する学位によって学生が何を学んだかを示し、無事に単位を取って修了したコースや専攻を記録に残している。

 伝統的なワークOSは、これらの記録を組み合わせて、ある職務に必要な一連の資格を列挙し、それにきれいに当てはまる学位や職務経験を持つ候補者を探し出す。いずれかの点で条件を満たしていない候補者はそこで排除される。仕事と個人のこのような捉え方は、ここまでの議論でもわかるように、機敏さが求められる環境のなかでは企業の足をひっぱることになる。

 第1に、個人の資格を学位や過去の職歴で語ろうとすると、それらと無関係な能力が見えなくなってしまう。・・・どんな職務に就いている従業員にも、その職務では使われていない能力があり、仕事が変われば、眠っているその能力が意味をもつことになるかもしれない。

 第2に、伝統的なワークOSは、個人にその仕事をする能力があるかどうかについて、近視眼的な見方しかできない傾向がある。

 とはいえ、日本的な得体の知れない「人間力」で済ませることができないので、「累積可能な資格証明」(スタッカブル・クレデンシャル)とか「非学位修了証書」(ノンディグリー・クレデンシャル)といった苦肉の仕組みを案出せざるを得なくなるのだが・・・。

タスク型時代の社会的保障と二重の課題

 社内人材をジョブにこだわらず柔軟にタスクベースで活用するというやり方もあるとはいえ、本書が描き出す未来のタスク型社会の中心はさまざまな非雇用型就業である。とりわけ、世界的に注目を集めているプラットフォームワークの社会的保護の仕組みをどう構築するかは本書でも大きな論点である。

 ジョブ型雇用社会においては「ジョブ」こそが雇用の安定、所得の安定、社会的地位の安定等々を通じて、何よりも社会的安定装置として機能してきたので、その「ジョブ」が解体され、その都度のタスクベースで人々が働くような社会になると、ジョブにひも付けされたさまざまな社会保障制度は機能不全に陥る。それに代わってよりユニバーサルな制度をつくっていかなければならない、として、本書はすべての労働者が守られる保健医療制度、ユニバーサル・ベーシックインカム、ハリウッドモデルの労働組合、そして教育の脱構築等々といった提案を提示していく。

 戦後日本は、ジョブではなく社員という身分にさまざまな社会的保護がひも付けされる仕組みを構築してきた。それが今日、さまざまな矛盾を露呈し、法制度が本来予定していたはずのジョブにひも付けされた社会的保護に組み替えていこうという流れが徐々に進んできている。しかし、世界的に見ればそのジョブ自体が解体されていくのだとすれば、我々の課題は二重のものであるといわなければならない。

 一方で、メンバーシップ型雇用社会が生み出している正社員優遇の社会システムをジョブ型雇用社会の原則に近づけていくという作業を進めながら、他方で、そのジョブが解体されタスクベースで個人が流動していく社会にふさわしいシステムを構想し、構築していくという作業も進めていかなければならないのである。


<PROFILE>
濱口桂一郎
(はまぐち・けいいちろう)
1958年生まれ。83年労働省入省、2003年東京大学大学院客員教授、05年政策研究大学院大学教授、08年労働政策研究・研修機構統括研究員、17年労働政策研究・研修機構研究所長。主著:『新しい労働社会』岩波新書(2009年)、『若者と労働』中公新書ラクレ(2013年)、『日本の雇用と中高年』ちくま新書(2014年)、『働く女子の運命』文春新書(2015年)、『働き方改革の世界史』ちくま新書(2020年)、『ジョブ型雇用社会とは何か』岩波新書(2021年)、『賃金とは何か  職務給の蹉跌と所属給の呪縛』朝日新書(2024年)。

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