2024年12月23日( 月 )

東福岡高校に学ぶマネジメント力~(医)井口野間病院・岡田勢聿氏(前)

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 福岡・九州の企業および政治・経済の取材・情報発信を行うなかで、東福岡高校のOBの方々が九州のみならず、全国、世界を舞台に活躍・貢献していることを改めてうかがい知りました。そこで弊社では、多方面で活躍されている東福岡高校のOBを集めた書籍『東福岡高校OB100人(仮題)』(2017年12月下旬発刊予定)を制作することを決意しました。本書籍はOBの方々が高校生活で経験し、今なお自身に根付いている学びの精神などを語っていただき、「なぜ東福岡高校の生徒は伸びるのか」という疑問を紐解いていきます。同時に「我こそは!」という現役で活躍されている東福岡高校のOBを募集しています。

 今回は発刊に先駆け、(医)井口野間病院、(医)周友会徳山病院、(一財)高雄病院の副理事長を務める岡田勢聿氏をご紹介します。

商社マンから医療の道へ

 人間味ある血の通った医療を目指す岡田副理事長が、病院経営を始めたのは12年前。さらに前の、27年前から作業療法士として医療現場で脳障害や発達障害児の教育に携わり始めたという経歴がある。
 岡田氏は、東福岡高校を経て福岡大学商学部を卒業。麻生商事㈱に営業職として入社。営業として活躍していたなか、麻生グループの飯塚病院でリハビリ現場を見て「医療こそわが天職」と感じて、同社を退職。一念発起し、自閉症に対するボランティア活動を行う傍ら、川崎リハビリテーション学院に入学。作業療法士としての資格を取った。

岡田勢聿氏

 その後、白十字病院(福岡市西区)で脳卒中患者らの機能回復訓練に携わり34歳で独立。学習障害(今の発達障害)児を対象とした教育施設『知徳学園』を設立した。この分野では九州初の私設教育施設として注目を集めた同学園には、300人以上の子どもたちが入園したが、その多くは母子家庭などで月謝の支払いが滞り、資金繰りが厳しくなった。

 それでも、岡田氏の損得勘定抜きの姿勢に理解を示す福岡経済界の人々からの支援もあり、苦しいながらも事業を推進し、発展させてきた。「当時のご恩は今もこれからも、決して忘れません」という岡田氏。学園の解散後、岡田氏は紆余曲折しつつも、介護福祉や健食通販などの健康サービス産業の道を歩み続けた。そして2005年に、(医)周友会徳山病院(山口県周南市)から病院経営への誘いを受け、医療分野に携わることとなる。現在は、(医)井口野間病院(福岡市南区寺塚)、(一財)高雄病院(京都市右京区)など、真に患者と向き合える地域医療の構築を目指す病院経営者として腕を振るう。

 岡田氏の医療経営の原点は、人に寄り添う医療である。各病院のリーダーを選ぶうえで「現場の忙しさ、人手不足で医療従事者にストレスが溜まり、その捌け口を患者に向けてきました。人間だからストレスも溜まると言い訳をしますが、それを自分たちの問題として改善できないのなら、医療従事者の資格はありません。医師が診療的な部分で評価されるのは当たり前のこと。それ以外の部分は、結局人柄がものを言います」と専門的な知識や技能はもとより、品性や品格など人としての高い見識があるかどうかを重要視するという。

 その考え方の原点が、「東福岡高校での3年間です」という岡田氏。同校での学生生活を振り返り、「すごく鍛えられました。私は部活動などは行っておりませんでしたが、毎日が鍛錬でした」と語る。その同校の3年間は、「まずは周りの生徒らが個性的でした。不良、やんちゃ、そして気迫と気骨のある面々でした。表現しづらいので上手くは言えませんが、隙を見せたら“やられて”ましたから。だから、毎日自身の心を引き締めながらの学校生活でした」という。

(つづく)
【河原 清明】

<プロフィール>
岡田 勢聿(おかだ・せいいち)
1960年福岡市生まれ。東福岡高校、福岡大学商学部卒業。麻生商事(株)入社。退職後、川崎医科大学付属リハビリテーション学院作業療法学部入学。卒業後、(医)白十字会で作業療法部主任を歴任後退職し、発達障害児施設知徳学園を福岡市で開設し園長を務める。その後、NPO法人理事長を経て、現在は(医)井口野間病院、(医)周友会徳山病院、(一社)高雄病院の副理事長を務める。また、九州大学医学部第一内科教室でリエゾン精神医学を専門習得生として研究中。

 
(後)

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