2024年12月23日( 月 )

失われた古代九州王朝の歴史(12)

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 九州古代史研究家の荒金卓也氏の記述の中に、「三国志・魏志倭人伝」と「三国志・魏書・韓伝」に付いての解釈があります。

 引用しますと、「三国志・魏志倭人伝」に「従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国、七千里。始度一海、千余里至対海国」とあります。
 現代文にしますと、「帯方郡から出発して倭国に至るまでには、まず海岸沿いに船で行き、韓国に上陸し、韓国の中を南進し次は東進し、倭国の北岸である狗邪韓国に到着する、ここまで七千里だ。狗邪韓国から始めて大海を渡り、約千里で対海国に到る」となります。
 また、「三国志・魏志韓伝」には、「韓在帯方之南、東西以海為限、南与倭接」とあります。
 現代文にすると、「韓国は帯方の南に在り、東西どちらも海に接しており、南は倭国と地続きである」。
 これらが意味するのは、韓国の南部には倭国の直轄領が存在していたということです。

 これらの事がなぜ大事か。それは倭奴国が代々継続して、中国の属国として官位を授けられ、朝鮮半島に台頭してくる高句麗・新羅を相手に百済を援護し、任那を維持・継続するために戦いに明け暮れた「倭の五王」の後の王が、「筑紫の君 磐井」であることを示しているからです。

 また、荒金氏の書籍「九州古代の謎」に、瀬高町の「こうやの宮」という小さな祠にある、七支刀をもつ人形の記述があります。
 表裏両面に金象嵌の銘文が施されていて、鉄刀ですから錆がひどいそうですが「西暦369年、百済王の使者が、倭王旨の即位を祝って七支刀を進呈しにきた」と読めるそうです。
 倭王旨は、いわゆる五王(讃・珍・済・興・武)の前の倭王です。九州王朝による韓国南部の統治継続は、ここでも証明されています。

 「筑紫の君 磐井」のことを、教科書の日本史では「筑紫の磐井が天皇の命に従わず職務を妨害し、海路を遮断し高麗・百済・新羅・任那などの国の貢物を奪うので、討伐する」と記載し、いわゆる「筑紫の君 磐井」の反乱としています。西暦527年の「日本書紀・継体天皇記」の引用です。
 この「日本書紀」には、日本は昔から近畿天皇の領地で近畿王朝が列島唯一の王朝であったの如く記載され、反乱とされています。
 しかし前述しているように、当時の西日本の支配者は、「筑紫の君 磐井」です。

(つづく)
【古代九州史家 黒木 善弘】

<プロフィール>
黒木 善弘
1947年3月6日生まれ。九信電設(株)代表取締役。
社業は、福岡県警の交通信号分野の指定工事業者として、業界の会長職並びに電気工事業界でも、福岡県・全九州・全日本の役員を歴任し、2008年秋に黄綬褒章を受賞。
一方、社会奉仕活動として、ライオンズクラブに所属し、クラブ会長並びに地区・複合の各役委員を歴任し、現在福岡博多ライオンズクラブに所属する。
敬愛する古代史学者は、古田武彦氏、荒金卓也氏を挙げる。

 
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