2024年12月23日( 月 )

失われた古代九州王朝の歴史(13)

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 ここで、時の天皇「継体」は、討伐の大将に「長門より東をば朕制らむ、筑紫より西をば汝制れ」と、現代文でいえば「長門より東は自分が治めよう、筑紫より西はお前が統治し、賞罰も思いのままに行え」と告げました。
 つまり、当時の西日本は近畿天皇家の支配下ではなかったと自ら暴露しているのです。そうでなければ、わざわざ占領した土地の分け方を提案したりしないでしょう。

 また、「日本書紀」に、西暦527年、肥・豊にも勢力をのばしていた「筑紫国造磐井」は、任那救援のため、大和政権が遣わした近江毛野の軍勢を遮り、「汝は今こそ大和政権の使者として来ているが、昔は吾が伴として、肩摩りつつ共器にして同食していたのに、にわかに敵と為り、余をして儞(いまし)が前にしたがわしむる事を得むや」と言って挙兵します。
 筑紫の御井郡で戦いが始まり、磐井は1年あまりにわたって交戦し、ついに豊前の山に入って姿を隠しました。磐井を見失った官軍は引き返し、八女の石人・石馬の頭などを撃ち落としたとあります。
八女の岩戸山古墳は、磐井の祖父にあたる人の墓だとされています。

 足早に、紀元前の徐福から~西暦600年の磐井の時代までの古代九州王朝を、私の独断と偏見での古代史をつくりあげましたが、いかがだったでしょうか。
 郷土の文化を愛し、諸々の遺産・遺構を身近に垣間見てきました。いわゆる通説が、理不尽に消そうとする九州の古代遺産を、なぜ見直そうとしないのか。すべてを近畿大和政権下の出先機関の一部だとして、かたを付ける文部科学省のやり方に対して、これらの物を覆すような文献・遺物などの事柄を発見できればとても痛快なのですが。

 最近の流行言葉を借りると、“違うだろ~!”というわけです。

 今後、さらに新たな文化遺産が発見されることを、大いに期待するものです。

2017年9月吉日 記
黒木 善弘

<プロフィール>
黒木 善弘
1947年3月6日生まれ。九信電設(株)代表取締役。
社業は、福岡県警の交通信号分野の指定工事業者として、業界の会長職並びに電気工事業界でも、福岡県・全九州・全日本の役員を歴任し、2008年秋に黄綬褒章を受賞。
一方、社会奉仕活動として、ライオンズクラブに所属し、クラブ会長並びに地区・複合の各役委員を歴任し、現在福岡博多ライオンズクラブに所属する。
敬愛する古代史学者は、古田武彦氏、荒金卓也氏を挙げる。

 
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