【再録】積水ハウスの興亡史(2)
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「地面師詐欺」の余波を受け、会長と社長が解任動議を突きつけ合う泥沼の抗争劇を繰り広げる積水ハウス。かつてNet-IB NEWSでは、野口孫子氏の手になる同社の興亡を描いた連載記事を掲載した。積水ハウスへの注目が改めて集まっている今、2007年に掲載された記事を再録する(文中の人物、企業の業績などについてはすべて連載当時のもの)。
試作棟の完成後、いよいよ、東京、大阪に展示場を開設した。プラスチックをふんだんに使ったプレハブ住宅ということで、物珍しさも手伝い、予想以上の来場者があった。
これはいける!と判断した上野は、本格的に住宅産業に進出するため、1960年8月に積水ハウス産業(株)を設立。社長は上野が兼務することになった。
ところが、一方では、本体の積水化学の拡大路線にかげりが見え始めていた。本体が揺らぐと、新規事業の積水ハウス産業を育てあげる余裕がなくなっていた。積水ハウス産業の累積赤字は資本金1億円に達する状況になっていた。
「こんなドラ息子の面倒は見ていられない!」と積水化学の役員会で、上野は住宅事業から撤退する、と宣言。専務の田鍋が「たしかに、しんどいが今後住宅需要は増える、潰すのはもったいない」と発言すると、上野は「ならば、お前がやれ!」ということになり、1963年8月積水ハウス産業の社長に田鍋が就任した。
以降、1993年に死去するまで30年にわたり、田鍋は社長、会長として、生涯現役で積水ハウスを引っ張り、ゼロから1兆円企業にまで育てあげたのである。
親会社から、どら息子!と切り捨てられた積水ハウス産業を1人前の会社に育成するという、男の意地を見せようと考えた。朝鮮窒素に入社して、戦後はソ連占領下のあの38度線を乗り越え、生死の際をくぐりぬけた田鍋は、決心したのである。日窒マンの1人として、ここで踏ん張るしかない、文字通り断崖に立たされた男の背水の陣であった。
田鍋が最初に手がけたのは社名の変更だった。
赤字も募り、この会社は解散するのでは?との噂も広がり、社員のやる気は乏しく、意欲も失っていた。何とか士気を高めなくてはならない、と考え、積水ハウス産業の「産業」はプレハブ住宅を建てる建設業にはふさわしくない、商社のような社名は不適当として産業をとり、積水ハウスとした。
社長が変わり、社名も変えるということで、社内の雰囲気を変えようしたのだった。次に手がけたのが出向社員の移籍だった。当時の積水ハウスは、積水化学からの出向社員主体で構成されていた。出向社員は、積水ハウスが倒産しても親会社に帰れるという気持ちがあるため士気は上がらない。そこで、田鍋は社員1人ひとりと面談し、
「私はここの船長だ。この船と運命をともにする覚悟だ。私を信用できないなら、すぐ、積水化学に帰っていい、私についてくるなら、積水化学に辞表を出し、退職金をもらってきてほしい」
と説得。結果的に全員が積水化学からの移籍に同意したのだった。田鍋は感激、そして責任の重さをずしりと感じた。田鍋はこのとき、
「どんな苦しいことがあっても親会社に助けを求めず、自主独立を貫こうと決心した」
と述懐していた。
そして、この社員との信頼関係が、田鍋の口癖だった「会社は運命共同体」の持論にますます確信をもたせたのであった。この持論が会社は使用者と労働者の関係でなく、労=労だとの持論にもなっていった。続いて田鍋は、直販制度の導入を手がける。
当時のプレハブ住宅メーカーは代理店販売をしていた。お客さんに売り込むのも、施工するのも、代理店任せだった。
田鍋は、高額商品であり生活の拠点である住宅という大切な商品を、他人任せにできないと考えた。田鍋の経営理念にそぐわない。積水ハウスの社員が直接販売、直接監督施工する、責任施工方式にしたのである。直販制度を取り入れ、全員営業の方針の下、業績は着実に伸びていった。やがて、直販制も軌道に乗り、営業は正に夜討ち朝駆けの毎日だった。会社の基礎も固まり、売り上げも倍々ゲームのごとく伸び、10周年を迎えるとき、念願の上場をはたすことになるのだった。
直販方式の積水ハウスでの成功を見たプレハブメーカー各社も、その後、直販方式に変わっていったのである。
(文中敬称略)
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