福岡市繁栄の礎築いた元祖デベロッパー、役割終えて「家主」業で生き残る(前)
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太田一族
希代の実業家4代太田清蔵は、インフラ事業や企業再生などに取り組み財を成す一方で福博の発展に命を燃やした。その後、多様な運命をたどった一族は、貸しビル業を事業の中心に据えて現存する。事業会社の九州勧業(株)は手堅い経営を続けるが、再開発ラッシュに沸く福博のまちづくりに関わることはなく、一族の資産管理に徹している。
福博発展に執念燃やす4代太田清蔵
4代清蔵が福博発展に情熱を燃やした理由を、当時の時代背景に見ることができる。1800年代後半から1900年代初頭、福岡市の政財界は都市として熊本、長崎らの後塵を拝する危機感に駆られていた。両都市に比べ政府機関がなく道路も狭く開発が遅れていたのである。発展にはインフラ整備が不可欠であるという思いは渡邉與八郎ら財界人も共有していた。
1895年に両者が中心となって現在の博多区住吉に博多絹綿紡績を設立する。同社は、環境の急激な悪化により失敗に終わるが、鐘紡に合併することで工場存続をはたす。その後、電灯会社や鉄道会社を設立。必要とあれば積極的に協調戦略を取り、安田財閥の安田善次郎や後の電力王・松永安左エ門らを引き込んだ。それらが実を結び、およそ100年後の今日、福岡市は世界有数の成長力ある都市に変貌している。
日本橋に本社があった東邦生命(徴兵保険)を引き受け、一族最大の企業に育てたことにより、4代清蔵以降の本家筋が東京移り住み、一族の命運が分かれていく。
ボロボロの徴兵保険引き受けに際し、労多く身は少ないことを業界の重鎮からも忠告された。再建計画自体も4代清蔵ら重役が無給で働いて16年でようやく果たせるという途方もないものだった。非常な覚悟をもって再建に着手すると6年で再建をはたした。
銀座にビルを完成させ百貨店松屋を店子に保険会社による貸しビル業に先鞭をつける。巧みな人材登用も相まって順調に業容拡大をしていく。
4代清蔵は、晩年まで精力的に働き、貧困家庭救済と育英を目的とした太田報徳会の設立や、中学校がなかった糟屋郡のために香椎中学校も設立した。
一族の命運を決定付けた経営者としての5代清蔵
5代清蔵は「身の丈」経営に徹する。香椎中学校を福岡市に寄付し東邦生命を防衛しぬいた。経営者としての力量は低くない。三井銀行に勤務したことがあり係数面も明るい。1936年に社長就任後に契約金額を拡大するも、終戦時には支店・支社が被害。主力商品「徴兵保険」を失い、ゼロベースからの普通保険会社への転換を余儀なくされた。同時に会社組織を株式会社として存続するか、財閥解体をもくろむGHQの意に沿い相互会社化するか選択を迫られた。第一徴兵保険は同族ながら財閥でなかったので組織変更の必要はなかったが相互会社化を選択。多額の財政負担を負いながら断行した。46年には4代清蔵が死去。これら難局を自身のかじ取りで乗り切らねばならかった。弟の辨次郎ら一族で役員を固め団結を図る一方で一族以外からも役員を登用し士気をあげた。「石橋を叩いて渡らない堅実経営」(OB佐藤守氏、雑誌『財界』に掲載された告発手記より)の社風はこうしたなかで醸成され事業は4代清蔵時代の何十倍にも拡大させた。
相互会社化で、一族企業や5代清蔵らがほとんどの株式を保有する私企業から契約者がオーナーとなる公企業になったはずだった。
偉大な先代に隠れがちだが、5代清蔵による社会貢献は4代清蔵に劣らない。集めた浮世絵1万2,000点は国際的にも評価され、展示する「太田浮世絵美術館」(東京都渋谷区)には多くの外国人が訪れる。
国益の保持を名目に、理化学研究所を資金援助した。これは金融機関の支援が止まった難しい案件だったがご意見番的存在の反対を押し切って推進した。深い信仰心から櫛田神社、香椎宮、伊勢神宮、明光寺、などへ奉賛、寄進に力を注いだ。早世した3男の母校に奨学金制度を設け、政治家となった学友の資金援助もしている。
1年におよぶ欧米への新婚旅行や1万点を超える浮世絵蒐集は、桁違いの御曹司の印象を濃くする。しかし、新婚旅行期間は現地で大量の書物を購入し、実際の訪問で欧米の金融機関に学んでいる。浮世絵蒐集は近親者にも秘すほど秘密裏に進め公私を明確にしていた。酒は飲まず対外的な活動は長弟・辨次郎に任せるなど派手さと対局の生き方をしている。
(つづく)
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