鹿児島の歴史(1) 初代・島津忠久~五代・島津貞久
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鹿児島の大名・殿様といえば、代々「島津氏」です。島津氏は、鎌倉時代の初代忠久から江戸時代末の29代忠義まで、700年近くも鹿児島の領主であり続けた全国的にも珍しい一族(「旧族居付(きゅうぞくいつき)の大名」といいます)です。
「島津」の起源は、「島津荘」という荘園です。11世紀前半に、太宰府の役人だった平季基が、日向国諸県(もろかた)郡島津の地(現在の都城市)にきて、土地を開発し、摂関家に寄進しました。島津荘は12世紀末には薩摩国だけで約3,000ha(薩摩国の総田数は約4,000haで、国全体の70%以上)にもなり、我が国最大級の荘園でした。
島津氏と鹿児島との関わりは、1185年、惟宗(これむね)忠久(島津家初代忠久のこと)が、島津荘の下司(げし)職(翌年、地頭職と改められた)に任命されたことに始まります。忠久は、島津荘の領主であった摂関家に仕える役人であり、また、幕府の有力者であった比企能員の縁者(忠久の母が比企氏)であったことから、両者の利害関係が一致したのです。薩摩にきたのは1回だけで、鎌倉で生活します。
忠久は、九州各国に守護が任命された1197年には、薩摩・大隅の守護になっています。実際の政務は、守護代・惣地頭代です。なお、忠久の役職は薩摩・大隅だけではありません。九州以外では、越前国の守護や5つの地頭職に任ぜられています。
また、島津家には「忠久は源頼朝の庶子」という言い伝えがあり、「島津雨」という言葉もあります、忠久創建と伝えられる花尾神社(鹿児島市)は、主神を源頼朝・丹後局(忠久の母〉とし、惟宗廣言(ひろのり)は「養父」になっています。16世紀半ばに薩摩・大隅をほぼ制圧した島津氏が、日向国に進出しようとした時、日向南部の領主だった伊東氏も鎌倉以来の名家だったため、日向進出の大義名分を得るためだったともいわれています。3代久経も鎌倉で生活していましたが、元寇の時代であり、これに備え、福岡に下向し、福岡(筥崎)で亡くなります。4代忠宗の時、薩摩に移住しますが、その居城は、最初は、肥後国に近い山門(やまと)院木牟礼(きむれ)城(出水市)です。鎌倉時代から今の鹿児島市に城を構えていたわけではありません。
平安時代、各国には都から派遣された国司、地元の有力者が任命された郡司という役職が置かれていました。鎌倉時代になっても薩摩では歴史的に「薩摩平氏」といわれる一族の勢力が強く、主な郡司職を独占していました。守護・地頭の島津氏は、各郡司と対立しながら、勢力を伸ばしていきます。
5代貞久は、拠点を出水から薩摩郡の碇山城へ、さらに1341年、東福寺城(鹿児島市)を攻め落とし、息子の氏久をおきました。南北朝時代になってからの拠点が鹿児島市なのです。(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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