鹿児島の歴史(2) 五代・島津貞久~十五代・島津貴久
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南北朝期になって本拠地を鹿児島(東福寺城)とします。ただし、東福寺城は50~60mの
山城(多賀山)で、防衛を第一とし、手狭で、城の付近には町といえるものは存在しません
でした。
貞久の後、氏久-元久-久豊-忠国-立久-忠昌-忠治-忠隆-勝久-貴久と続きますが、薩摩・大隅を平定し、ほぼ安定した領国経営をするのは、15代貴久が鹿児島御内(みうち)城に入城する1550年です。
およそ200年にわたって、島津氏と国人(領国内の在地領主)、また島津一族同士の争いとなった内乱状態が続いたことになります。当主によって勢力の違いはありますが、全国的にも南北朝・室町・戦国時代と混乱した時代であり、鹿児島でも似たようなものでした。1363年、貞久はおおまかに薩摩を師久(もろひさ)に、大隅を氏久に分与します。ただし、鹿児島郡は氏久に譲与でしたので、氏久は東福寺城を拠点とします。ここに島津氏は主に薩摩の総州家(島津上総介だったため)と、主に大隅の奥州家(島津陸奥守だったため)にわかれました。
両家のなかで勢力を伸ばしたのが氏久の息子の元久です。元久は領国の守護職を再び統一して、領国形成の本格化に努め、1387年、清水城を建設しました。清水城は山頂ではなく、山の端に位置していました。山城と山下の居館を中心とする典型的な初期の城下町の形態を備えていました。約160年間、島津氏の本拠地となります。
1411年、元久は清水城で死去します。元久は、島津家菩提寺として福昌寺を創建していましたが、1人息子の梅寿を福昌寺第3世としたため。後継者がいなくなり、家督相統の紛争がおこりました。弟の久豊と一族の伊集院頼久が中心でしたが、久豊が勝利します。その間、一族や諸氏との対立があり、11年の歳月を経て、薩摩・大隅をまとめ、その後日向に向かいます。1425年久豊が死去し、息子の忠国が3州の守護職となりました。その後も領国経営はなかなか安定せず、とくに忠昌の時代は混乱を極めました。一族の反乱や伊東・相良氏の国外勢力、国内勢力との争いに費やされました。解決しない中、忠昌は1508年、消水城で自刃しました。忠昌は好学の大名で、薩南学派の学祖となった桂庵玄樹や雪舟門下第一の名手といわれた秋月等観(しゅうげつとうかん)を招くなど文化興隆にも努めました。
忠昌の後、忠治・忠隆・勝久と3人の子どもが守護職となりますが、いずれも在職期間は短く、1526年、勝久は守護職を、伊作家島津忠良の息子の貴久に譲りました。貴久の後継に反対したのが、勝久夫人の弟・実久です、当初は実久が優勢で、貴久は鹿児島から脱出したこともありましたが、貴久が優勢となり、実久は出水に退きました。前述のように1550年、本拠地を鹿児島御内城(平城)としました。貴久の父忠良(日新齊)は、島津家中興の祖とされ、武士の重要な教えとなった「いろは歌」(例「い」いにしえの 道を聞いても唱えても 我が行いに せずば甲斐なし)の作者でもあります。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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