鹿児島の歴史(3) 16代義久~18代家久
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16世紀半ばになって島津氏は薩摩・大隅を統一し、ようやく安定した政権となります。700年近い鹿児島の領主ですが、前半(初代忠久~14代勝久)と後半(15代貴久~29代忠義)とでは随分と違いますね。内乱に明け暮れることの多かった前半に比べ、当主を中心にまとまりのあった後半(いろいろと事件はおこりますが)といえます。
貴久には、優秀な4人の息子がいました。16代義久・17代義弘・歳久・家久です。義久は貴久の後を継ぎ、1574年には3州統一を成し遂げます。その後、豊後の大友氏、さらに肥前の龍造寺氏を破り、九州統一寸前までいきます。豊臣秀吉の九州征伐で頓挫しますが、強硬派だった歳久は秀吉から自刃を命じられます。
義弘は、朝鮮の役や関ケ原の戦いで有名です。文禄の役では軍役動員がはかどらず「日本一の遅陣」といわれ、後継ぎの久保(ひさやす)を病気で失っています。慶長の役では、泗川(しせん)の戦いで、大軍を破り「鬼石曼子(しまづ)」と恐れられました。関ヶ原の戦いも1,000の兵で参加し、敵陣突破で何とか薩摩に帰り着きます (「島津の退き口」)が、帰り着いたのは80人程でした。「日本一の遅陣」や1,000という兵の少なさなど、義久と義弘の対立(考えの相違)があったともいわれています。
1599年、最後の内乱である「荘内の乱」が起こります。1594~95年にかけて、太閤検地が行われました。石田三成が中心となり、島津氏側からは伊集院忠棟が参加します。義久・義弘10万石に対し、忠棟が8万石、荘内(今の都城)を手に入れます。これに不満をもった義弘の子忠恒が忠棟を京都で暗殺し、忠棟の子忠真が乱を起こしました。徳川家康の仲介もありましたが、1602年忠恒は忠真を暗殺し、その後3人の弟も暗殺しました。
関ヶ原の戦いで西軍だった島津氏は窮地に追い込まれますが、1602年には所領を安堵されます。 18代忠恒は家久と改名(前述の家久とは別人)し、初代薩摩藩主となります。
1609年には幕府の許可を得て、琉球王国を支配下に治めます。ここに、島津氏は、薩摩・大隅・日向国諸県郡60万5,000石余と琉球12万3,700石の計72万8,000石余を支配する、加賀の前田氏に次ぐ天下第二の雄藩となります。
15代貴久が居城とした御内城は、戦に明け暮れていたため「築地(ついぢ)一重の屋敷」といわれるほどの急拵えの館でした。家臣のほうが堅固な城をもっている状態で、居城の建設が必要でした。新しい居城が今の鹿児島城(鶴丸城とも)ですが、天守閣はなく、本丸と二の丸に分かれていました、御内城に比べ、「少し手増(てまし)に御座侯(ござそうろう)」という程度でした。義弘などは 「海が近く守りにくい」ということで反対(事実、幕末1863年の薩英戦争では、本陣を内陸に移しました)でした。中心部を流れていた甲突川の流れを変え、海岸を埋め立て、城下を広くしていきました。地形の関係から、東福寺城を本拠地として後、現在まで鹿児島地域は南へ南へと発展していくことになります。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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