鹿児島の歴史(4) 江戸時代の薩摩支配
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天下第二の雄藩となった薩摩藩ですが、その治政にはいろいろな特徴があります。ここでは、外城(とじょう)制度や門割(かどわり)制度、一向宗の禁止などについて述べます。
まず、外城制度について。16代義久の時代に、大友氏や龍造寺氏を破り、九州統一寸前までいったことは前述しました。勢力の拡大は、家臣団の膨大を意味します。秀吉の九州征伐で薩摩・大隅の2国に戻りますが、家臣を減らしませんでした。すべての家臣を鹿児島城下におくことはできませんので、藩内を113の外城(後に郷)に分け、各外城に住まわせたのです。初めは皆「○○(地名が入る)衆中」と言っていましたが、18世紀後半頃から城下士・郷士と呼び分けました。経済面でも違いがあり、1639年では、城下士(1,015人〉は500石以上の上級武士を除いた中・下級武士でも平均107石でしたが、郷士(8,202人)は平均10石余です。西郷家も下級武士ですが、城下士です。日本全体で武士階級は約6%ですが、薩摩藩は約26%で、明治初期、全国の士族のうち1割は鹿児島士族でした。
鹿児島城下の人口は、1800年前後、約5~5万8,000人で、周辺地域を加えると約6~7万人でした。江戸・京都・大坂の3都以外では、名古屋・金沢が10万人ほどで、鹿児島はこれについでいました、港町の堺と長崎が5~6万人です。
門割制度について。薩摩藩独自の農民支配制度ですが、年貢の徴収などを個々の農民ではなく、門・屋敷で掌握するという方法です。門は、長である名頭(みょうず)と、名子(なご)という複数の農家から構成される農業経営体のことで、屋敷とは、門より小規模な経営体です。「村(庄屋)-方限(名主)-門・屋敷(名頭)-家部(名子)」となります。幕末、城下近くの武村の組織は、庄屋1人、名主5人、名頭51人、名子102人です。名頭は世襲で、年貢などの記録や帳簿記入などもあるため、文字の読み書きができました。
この制度の特徴の1つは「人配(にんべ)」です。一般的には崩壌しかけた門に過大化した門から農民を強制的に移すことで、門の維持・回復を図りました。「労(つかれ)名頭には慥成(たしかなる)名子、又慥成(しっかりした)名頭には労(大したことない)名子与合せ(くみあわせ)」て行いましたが、この辺りは今も昔も変わりませんね。大規模な例として、西目(薩摩半島〉から東目(大隅半島)や日向への人移し政策がありました。「八公二民(他藩は一般的に五公五民)」「公役は月35日」といわれる薩摩藩ですが、門高は実際より低く査定されていたり浮免という年貢免除地があったりして、他藩に比べ、著しく負担が重かったわけではないといわれています。
鹿児島では、明治になって、名字をつける時、門名をつけた農民も多いでした。
一向宗の禁止について、すでに1597年の17代義弘の文書には、「一向宗ノ事、先祖以来御禁制」とあります。禁止の時期・理由は不明ですが、他国の一向一揆の様子や、信長・家康たちの苦労などから、「御禁制」にしたともいわれています。なお、鹿児島での山元や坂元などの名字は。「本」の字を避けたためともいわれます。(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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