中内ダイエーなくして、福岡がここまで発展することはなかった(12)~高塚猛のビジネス人生の2つの『If』(1)
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誰もが生涯において、人生の決定的な岐路に立つ選択を余儀なくされることがある。平々凡々な人生を送る人は、その決断をしないままに終わる。高塚猛の場合には、その後の人生を左右する大きな選択が2つあった。(1)福岡ダイエー事業3点セットの再生案件を引き受けること、(2)ダイヤモンド社再建の大役を快諾することの2つである。何事も『If』(もしも)を論じても元には戻れないのだが、(1)での真逆の盛岡居残りを選択していたら盛岡の衰退は多少なりとも食い止めることができていたであろう。(2)の選択をしていたならば、ダイヤモンド社は現状以上に再生をはたしていたことは間違いない。
好成績を上げた 鼻柱が強い青年
高塚猛の目覚ましい業績は、リクルート社で話題になっていた。1965年にリクルートに入社。その辣腕ぶりを発揮して当時のオーナー江副浩正氏に重宝がられた。22歳で福岡営業所所長として好成績を上げていたという。各事業部門の副部長、事業本部長をこなして、どの部署でも語り草になる数字を上げていた。リクルートOBによると、75年末に江副氏と対立し、「それならば辞めてやる」と啖呵を切った。
強かなオーナー、江副氏は下手に出た。
「猛君!!そうへそを曲げるな。君にしかない仕事がある。盛岡へ行ってホテルを再建してくれ。君にしか務まらない」と頼み込んだ。
頭を下げられて懇願されると、猛は弱い。「よし!!行ってやろうじゃないか」と江戸っ子の意地を見せた。同氏の躍進の岐路は、盛岡でのホテル再生を命じられたことが始まりである。
76年、盛岡グランドホテルの再生のために29歳で赴任した。リクルート・リゾート事業の見本=安比高原スキー場
江副オーナーの事業構想は壮大である。「リクルートグループ内でリゾート事業を中核にしよう」という戦略設定をしていた。盛岡から北へ55kmのところに安比高原がある。71年ごろからこの場所にリゾート基地を構築する構想を抱いていた節がある。
65年、岩手国体開催を5年後に控え、天皇・皇后両陛下を迎えるための迎賓館を目的として地元総出で愛宕山の麓、小高い丘に盛岡グランドホテルを開業した。しかし、岩手国体も終わり、盛岡グランドホテルの業績は急速に悪化。岩手県・地元財界は、江副氏に再建を依頼した。同氏はこの機会を逃さなかった。77年、経営がリクルートに移譲された。商号を「岩手観光ホテル」に変更した。江副氏の目論見は的中(盛岡グランドホテル再生事業なんかは手始めであったのだ)。安比高原リゾート開発に、江副氏に借りをつくった行政・地元政財界が協力したのである。一瞬にして安比高原にはリゾートホテル、ゴルフ場が建設された。猛の才覚は、オーナー・江副の掌のうえで動かされていたのだ。
80年には安比総合開発(株)、安比レック(株)が設立された。この江副氏の壮大な構想の下で猛は激烈に働き成果を上げた。安比スキー場は、日本でも有数の有名かつ利用者数が1、2位を争うまでの実績を固めた。安比高原が元気になれば盛岡にも賑わいがもたらされる。
猛はいつの間にか行政・地元政財界各方面に影響を与える存在となった。極論すれば「猛天皇」と呼ばれてもおかしくはなかった。(つづく)
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