中内ダイエーなくして、福岡がここまで発展することはなかった(14)~高塚猛のビジネス人生の2つの『If』(3)
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誰もが生涯において、人生の決定的な岐路に立つ選択を余儀なくされることがある。平々凡々な人生を送る人は、その決断をしないままに終わる。高塚猛の場合には、その後の人生を左右する大きな選択が2つあった。(1)福岡ダイエー事業3点セットの再生案件を引き受けること、(2)ダイヤモンド社再建の大役を快諾することの2つである。何事も『If』(もしも)を論じても元には戻れないのだが、(1)での真逆の盛岡居残りを選択していたら盛岡の衰退は多少なりとも食い止めることができていたであろう。(2)の選択をしていたならば、ダイヤモンド社は現状以上に再生をはたしていたことは間違いない。
猛の2004年は、幸せと不幸の交錯の年
04年は、猛にとってビジネス人生の分岐点となった。3点事業が隆盛を誇り、猛の名声はさらに高まっていた。同年5月には国土交通省から『観光カリスマ』の1人に選ばれた。
ところが、厄介なことが生じてきた。金融庁の不良債権の処理をめぐる指導マニュアルが変更したことである。要約すると、「10年間で長期借入の返済が不可能であれば、会社は内整理すべし」というもの。背景には「不良債権を即刻一掃させて、金融機関の経営を早期で健全化させる」という目的があった。「債務超過の企業には再生の道へ向けてあらゆる支援を行うが、オーナー経営者は引退すべし」という条項が入っている。3点事業はどうにか黒字・収益体質にはなったが、10年で長期借り入れを返済できるはずがない。また、親会社・ダイエーは、再生会社という指定を受けて、中内功オーナーは引退に追いやられた。同時並行して福岡ダイエー事業3点セットも売りに出された。米投資ファンドのコロニー・キャピタルが高い値で3点事業を入札した。
一方、ダイヤモンド社の経営の具合も2000年を境にして悪化の一途をたどっていた。前述した「会社再建』の著者・湯谷昇羊氏などを介して、猛の方へ打診があった。「ダイヤモンド社を再生するための社長就任」の要請であった。猛は寸時で引き受けた。「東京・福岡の社長が務まるのか?」という懸念を抱いた関係者もいた。
第2のIfは、『ダイヤモンド社の社長に専念していれば……』。猛のビジネス人生はハッピーであったことだろう。そう惜しまれても、猛への弔辞にはならないが……。
謀略策動に負ける
3点事業を買収したコロニーの狙いは、「短期間で転売して利益を確保する」ことである。このハゲタカファンドと猛の経営観は、真っ向から激突する。コロニーは日本ではほとんど成功したためしがない。日本代表・増井氏にとって、3点事業の転売ビジネスを成功させるかどうかは、己の地位を守れるかどうかの試金石であった。だから必死であった。しかし、始めのうちは猛に柔らかい応対で融和を図ろうと試みたが、埒があかない。
「正攻法では無駄」と判断したコロニー側は、謀略策動に踏み切った。幹部・一般社員たちから情報を集めた(この社員たちの転がされる様をレポートしたら面白い小説になる)。一番、誰しもを納得させる手段は、セクハラ犯罪である。刑事告訴されて一転して犯罪者として転落した。こうなれば公職から離れるしかない。第2のIf『ダイヤモンド社の社長に専念していれば…』は、猛の気性から考えると1%の可能性も残されていなかった。宿命であろう。
ダイヤモンド社の経営は紆余曲折があったが、健全化されたと評価されている。猛の手を借りなくても、再生可能な資産が十分にあったのであろう。また、残された3点事業のうち、球団についてはソフトバンクが買収した。現在では、日本プロ野球界の最強球団となっている。17年もパリーグで圧倒的な強さを見せつけ、リーグ優勝を遂げた。もはや、『高塚猛』の存在は薄れている。
鈴子夫人の謝辞に涙を流す
高塚猛は2017年8月27日に70歳で逝去した。30日通夜、31日葬儀が行われた。
盛岡市と福岡市では、葬儀のスタイルが違う。盛岡(岩手県)では、まず葬儀の前日に通夜を行う。浄光会館でなされた。この点は福岡市と同じだが、翌日、まず火葬を先に済ませる。そして葬儀となる。8月30日の夜、葬儀場で通夜を迎えた。参列者は200名を超えていた。そして翌31日午前10時30分に火葬場へ送られた。遺骨を納めて午後1時から報恩寺で葬儀が行われた。
盛岡では、お寺の庫裏で葬儀が行われる。椅子は200席ほど用意されていた。参列者は180名前後。畳のうえに身内が座り、5名の高名な僧たちがお経を読み始める。張りのある声が庫裏内に緊迫感を与える。椅子に座った参列者たちには焼香が廻されて、それをもって数珠をかざして唱える。この葬儀様式で、故人となった猛と対面できない。不満が募る。各地区での葬儀スタイルにケチをつけるつもりは毛頭ないが…。
猛が公職から外れて13年、普通ならば過去の人になっている。しかし、その偉大な功績について、かなりの方々が今もなお敬服していることを思い知った。数えてみると、供花は170本。福岡の企業名も見かけられた。当時の球団・ダイエーホークスの選手の名前もあり、故人との関係がおぼろげに推察できる。やはり盛岡の地元企業からは、数多くの花輪がある。地元ではまだ過去の人でないことを証明していた。
最後に、鈴子夫人の謝辞があった。生前の故人への夫人の看護ぶりを見て、「よくまー、あれだけ献身的に尽くすことができるものだ」と感服していた。現役時代における猛の仕事のハードさは100人分である。「鈴子夫人と向き合う時間は皆無であったのではないか?」と、老婆心を抱いたこともあった。
「高塚が70歳で逝去したことを、『若い』と惜しんでくれる方々もあります。しかし、現役を離れて13年間は夫婦楽しく過ごすことができました。とくに病気の5年間、高塚と一心同体で過ごせたことが最高の幸せです」。
淡々と率直な気持ちを表明する鈴子夫人に、参列者からは感動のすすり泣きが漏れていた。故人が活動できたのも、この鈴子夫人の気丈さによるものであろう。合掌
(つづく)
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