奄美・トカラの歴史(2)~10-14世紀~
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奄美の歴史は、時代区分を“奄美世”(集落共同体時代、8~9世紀ぐらいまで)、“按司(あじ)世”(首長割拠時代、15世紀半ばまで)、“那覇世”(琉球王国統治時代、17世紀初期まで)、“大和世”(薩摩藩政時代、江戸時代)とすることもあります。
今回は、“按司世”です。按司は、鉄による生産力の発展や交易の利益などによって、勢力を強め周辺地域を支配した人々です。交易について、前述のヤコウガイは清少納言の『枕草子』にも「屋久貝」として記述され、ある貴族の日記にも「赤木2切、ビロウ300把、屋久貝50口」が贈られてきたとあります。岩手県平泉の中尊寺にも何千個も使われています。997年には、太宰府が「奄美人が乱入して人や物を奪った」と都に報告しています。一般的な交易も多く、20人前後が乗船する中型船で20~30艘以上の集団といわれています。12世紀中頃まで、奄美は太宰府を通じて、大和朝廷との関係をもっています。「キカイガシマ」、徳之島のカムィヤキ陶器窯跡群、喜界島の城久遺跡群について。
このころは、国の境界地域として、南方を「キカイガシマ」といいました。北方の青森県付近は「ソトガハマ」です。「キカイガシマ」の初見は、998年の「貴賀島(きかのしま)」です。12世紀は屋久島付近、14世紀には奄美群島も入っているといわれています。島津氏や千竈氏の勢力下です。「キ」の字は当初ヤコウガイなどの貴重品もあったため「貴」ですが、13世紀以降は流刑地でもあり「鬼」へと変わります。徳之島のカムィヤキ陶器窯跡群は、11~14世紀の遺跡で、100基以上の登り窯が発見されました。朝鮮半島南部の「高麗」の技術が入っていますが、1番の特徴は「商品の大量生産」です。船団を組んで交易し、その範囲は熊本県天草から沖縄県与那国島までの約350遺跡、距離約1,200kmにおよんでいます。
喜界島の城久(ぐすく)遺跡群は、8~12世紀の遺跡です。総面積約13万m2、高台にあり、掘立柱建物跡が約300棟、墓が約40基など大規模なものです。特徴として、「太宰府や博多など日本や中国の役所で使われたようなものが多く出土した」「圧倒的に外来のものが多い(島内で焼いた土器などはない)」「鉄製品を製作するための鍛冶炉が多数発見された」「埋葬人骨は焼いて(当時の奄美では珍しい)おり、奄美人タイプではないものが多い」などです。これらのことから、「地元ではない人間が数百人単位で、高台を占拠していたのではないか」「太宰府の出先機関があったのではないか」などが考えられています。
トカラ列島は、平安時代末~室町時代にかけては、薩摩半島の川邊郡に属しています。薩摩平氏の一族である川邊氏が郡司職を継承し、その後、島津氏や千竈氏が地頭職や郡司職であり、その勢力下にありました。「千竈時家譲状」といわれる文書(1306年、時家が子どもたちに各島の譲与を記したもの)も残されています。鎌倉末には、臥蛇(がじゃ)島が「わさのしま」と呼ばれていました。朝鮮音で臥蛇は「わさ」となるのです。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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