2024年11月13日( 水 )

奄美・トカラの歴史(7)~米軍統治下~

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 戦後、昭和21年2月2日、いわゆる二・二宣言によって、奄美とトカラは、アメリカ世ともいわれる米軍統治下に入ります。北緯30度以南です。
十島村(じっとうそん)は、南部のトカラ列島(7島)は統治下ですが、北部の3島は入らず分断されます。3島は鹿児島県の行政下で、鹿児島市に役場を置きます。三島村と自称しますが、正式な行政上の承認ではなく、2つの「じっとうそん」が存在しました。

 昭和21年4月には、日本との航海が全面的に禁止されました。食糧入手は自給のほか、米軍に頼るのみとなりましたが、食糧や日用品は常に不足している状態でした。そこで生きるための「密航」が行われました。ちょうど北緯30度に位置していた口之島が密航の中継基地となりました。本土の日用品は奄美で貴重品となり、奄美の砂糖は本土では10倍以上で売れたため、うまくいけば一夜にして成金となり、警察につかまれば刑務所行きでした。口之島は入江に船がひしめき、10戸足らずの海岸には200棟近いバラックが建ち、人口2,000人以上が「市」をなすほどでした。

 昭和24年には軍政府から「食糧3倍値上げ」の指示があり、翌1月実施されますが、日常生活に直接関係することであり、復帰運動を加速させるきっかけともなります。アメリカ政府は沖縄の大規模な軍事基地建設計画を発表しますが、「3倍値上げ」にはその資金を確保する目的もありました。

 昭和25年9月頃から、対日講和条約への動きが活発になりますが、アメリカは占領地域を信託統治下に置くことを明言しており、それに反対して、日本独立とともに復帰したいという運動が広がります。昭和26年には復帰誓願署名運動が全郡で展開され、14歳以上の住民の99.8%の署名を完了しました。署名録は日本の国会にも送られ、衆参両院本会議で「復帰決議案」が可決されました。しかし、7月には「北緯29度以南、信託統治」(十島村だけを返還)が発表されました。その後、奄美では郡民大会が開かれたり抗議の「断食」が行われたりしました。昭和27年には東京で日本復帰国民大会もあり、同28年8月には復帰声明があり、同年12月25日奄美群島は日本に復帰しました。

 十島村(じっとうそん)の復帰は、昭和27年2月4日です。2月10日に占領下にあったトカラ列島を大島郡十島村(としまむら)とし、同日、以前から鹿児島県行政下にあった3島を大島郡三島村(みしまむら)とし、「分村」(3島住民もほとんどが分村賛成)しました。昭和48年には、両村は大島郡から鹿児島郡へ編入されました。

 復帰は当時の国際情勢も関係します。米ソ冷戦下です。奄美群島返還には、ソ連へ北方領土の返還を促すアメリカの意図があったとされ、また、前述したように、昭和24年にアメリカ軍は沖縄に恒久基地建設計画を明示しており、沖縄の復帰にはより高いハードルがありました。

(了)

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