2024年12月28日( 土 )

福岡銀行の礎を築いた故佃亮二氏

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 福岡銀行元頭取の佃亮二氏が大濠公園の池に浮いていたのが発見されたのが、昨日(11月15日午前5時半ごろ)だったと報道された
 普通なら「身元不明」ぐらいの扱いだろうが、過去に福岡銀行頭取という要職に就いていた佃氏なので大きく報じられることになった。
 このニュースを聞き「奥さんを失くし、一人暮らしの佃さんも寂しい思いをされていたのでは」と同情する人もいるだろう。真実はどうであれ、佃亮二氏が福岡銀行を発展させた功労者であることは間違いない。

生え抜き抜擢を検討した

佃 亮二 氏

 佃氏は熊本県玉名市出身。東大法学部卒業後、1955年に日銀に入行。理事を経て89年に福銀副頭取に転じた。福銀の頭取ポストは日銀OBの指定ポストだった。91年に頭取に就任して9年間、バブルの処理に辣腕を振るった。96年3月期にはあらゆる負の資産を一括処理する決断をして福銀としては初の赤字決算となった。

 佃氏はかねてから「生え抜きをトップに据える時期が来るな」と自問自答していたという。というのも「不良債権処理以降の新しい銀行のビジネスモデルを開拓するのは役人上がりでは無理」という認識を抱いていたからだ。「次まで頭取に日銀OBを迎えて、その次は生え抜きでいこう」という決断を下した。そこで同じ熊本県出身の寺本清氏を次の頭取に据えた(もちろん東大卒、日銀所属)。寺本氏の父親は熊本知事、参議員を歴任した政治家。

寺本清氏の断行

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 寺本清氏は2000年に福銀頭取に就任した。先輩の佃氏と幾度となく福銀の将来に関して論じたという。「早急に生え抜きの頭取抜擢を実現しよう」ということで2人の考えは一致した。また寺本氏は性格が淡泊な方で、権力に執着する人柄ではなかったので、頭取のポストには5年間しか座らなかった。
福銀生え抜きの谷正明氏に頭取ポストを譲ったのは05年、64歳の時だった。過去の頭取の就任期間と比較しても短く、年齢が64歳というのは若すぎた。しかし、異例の人事は福銀の行員たちを奮い立させた。寺本氏本人は谷頭取就任お披露目式典がある2005年4月6日早朝に急性心不全で逝去した(資料参照)。

 05年4月から頭取に就任した谷正明氏の采配ぶりには誰もが感服した。そして実績も積んでいった。翌06年には西日本シティ銀行の頭取に久保田勇夫氏が就いた。修猷館高校卒で東大卒業後に大蔵省に進んだキャリアである。西日本銀行と福岡シティ銀行の合併時には福銀の預金量は西日本シティ銀行を約1,000億円上回っていた。

 それから12年、福銀と西日本シティ銀行の業績を比較すると収益面で2倍の差がついた(この詳細なレポートは近々、発表する)。要は久保田勇夫氏が銀行経営を蔑ろにした結果、大きな格差が産まれたのだ。戦犯ものである。佃亮二氏の最期は残念だったが、「福銀の躍進の基礎を築いた功労者は佃さん」という言葉を弔辞の言葉にする。

<追記>
 九州地銀(18行)の2018年9月期(中間)の純利益順位表を作成した。福銀と西日本シティ銀行とを比較すると、その差は歴然としている。親会社に帰属する中間利益では福銀267億8,700万円に対し、西日本シティ銀行が111億3,900万円、経常利益では福銀372億7,100万円に対し、西日本シティ銀行が160億6,300万円でともに2倍以上の差が開いているのがわかる。

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