ラガーマンの経営者群像~大和ハウスの芳井社長、サントリーの土田雅人氏~(後)
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サントリーの土田氏は、同志社で平尾誠二氏とチームメイト
サントリーの土田雅人氏も、ラグビーファンなら誰知らぬ者がいない有名人である。サントリーフーズ社長、サントリービバレッジソリューション社長を経て、今年4月1日付で持株会社サントリーホールディングスの執行役員(サントリー食品インターナショナル常務執行役員)に昇格した。
土田氏は1962年、秋田市生まれ。県立秋田工業高校でラグビーを始め、高校3年で日本高校代表に選出、豪州遠征に参加した。
卒業後は京都の同志社大学に進学し、ラグビー部ではナンバー8として活躍。ナンバー8はスクラム最後尾に位置する花形ポジションだ。大学2~4年で、平尾誠二氏、大八木淳史氏らとともに大学選手権3連覇をはたした。同志社ラグビー部の黄金時代のメンバーだ。
歴史に残る名勝負、社会人の覇者新日鉄釜石と大学の王者同志社の戦い
1985年1月15日、第22回ラグビー日本選手権決勝は、ラグビーの歴史に残る名勝負だったと語り継がれている。全国のラグビーファンがテレビの前で釘付けになった。
7連覇に挑む新日鉄釜石と平尾誠二氏、大八木淳史氏のふたりの日本代表を擁し、史上初の大学選手権3連覇を達成した同志社の戦いとなった。
この日は、新日鉄釜石の象徴的存在である松尾雄治氏の引退試合でもあり、相手は大学ラグビー史上最強と呼ばれる同志社。注目の一戦に、国立競技場は6万人を超す大観衆で埋まった。
試合は、前半こそ大学王者の同志社が奮闘したが、後半に入ると新日鉄釜石が底力を発揮。終了間際にサインプレイから決定的なトライを奪うなど、31-17で新日鉄釜石が勝利し、日本選手権7連覇を達成した。
この日は、ラグビー界のスーパースターが、松尾雄治氏から平尾誠二氏への世代交代の場でもあった。
同志社を卒業後、平尾氏と大八木氏はラグビー留学を経て神戸製鋼に入社。神戸製鋼ラグビー部の黄金時代を築いた。新日鉄釜石が7連覇を達成した日から10年後の1995年1月15日、神戸製鋼が新日鉄釜石と並ぶ7連覇を達成した。
サントリー監督として、チーム初の日本選手権2連覇を達成
同志社を卒業した土谷氏は1985年、サントリーに入社した。ラクビー部員の就職先は、神戸製鋼やトヨタ自動車もあるのに、「酒を売ってどうする」とからかわれた。
サントリーラグビー部に所属。89年にラグビー部の主将に。現役引退後、サントリーラグビー部の監督に就任、1年目で日本選手権初優勝に導く。
1997年、平尾誠二氏が率いる日本代表のヘッドコーチに就任し、第4回ワールドカップに出場した。平尾氏とは同志社時代のチームメイトで、旧友でありライバルであった。
2000年の退任後は、ラグビーから離れ、仕事に精力を傾けようと決めていた。突如、監督復帰の話が舞い込んできた。
復帰の依頼に、「佐治信忠社長が私に頭を下げるんなら、お引き受けしていいですよ」と冗談まじりに断った。ところが、佐治社長は、土田氏を呼んで言った。「強い組織をつくり、継続的に勝てるチームにしてほしい。3年で優勝してくれ」。
その熱意が土田氏を動かした。土田氏は監督に復帰。サントリーラグビー部は、2001、02年チーム初の日本選手権2連覇をはたした。土田氏は組織のリーダーとして抜群の成績を上げた。ビジネスの世界でも、東京支社プレミアム営業部長としてプレミアムモルツの陣頭指揮を執り、新規販路開拓で社長賞を受賞した。
サッカー人気に押され気味のラグビーだが、W杯開催を機に、かつての沸き立つような熱気を取り戻してほしい。
(了)
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