「哲人」中村哲氏への別離の弁
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「精進」の見本となる人物
12月2日、弊社では月刊誌「致知」をテキストにした社内勉強会「木鶏会」を行っていた。テーマは「精進」である。
精進するためには、まず理念、目標を設定しなければならない。そして、それに向けて一心不乱に努力をする。ただの努力ではない。寝ても覚めても集中し、結果が出るまで努力を続ける。するとある時、解決への道筋が見えてくる。「結果の出ないものは精進とはいえない」という厳しい道のりだが、道理に適っているといえる。
その席上、私は「精進の見本は中村哲氏である」と断言した。すぐに彼の顔が浮かんできたからである。中村氏はペシャワールの地元医療に貢献するべく現地に乗り込んだ。しかし、現地の現実を目の当たりにして「医療の前に生きること、食を確保すること」の重要性を痛感した。中村氏はここで大胆に方向転換。灌漑用水路建設のために土建業に転身したのである。この決断は凡人にはできない。
2日後の12月4日、私は東京にいた。すると会社から「中村哲さんがテロリストに襲われて亡くなられた」とのメールが送られてきた。「まさか」という疑念を抱きながらスマートフォンでニュースをチェックすると「ペシャワール会代表・中村哲氏死亡」というニュースが流れていた。2008年、現地スタッフの伊藤和也氏が武装勢力に襲撃・殺害されて以降、本人も覚悟をしていたかもしれないが、「この殺人事件にどのような意味があるのか!」と怒りが込み上げてくる。
朝倉三連水車
4日夕方、東京の友人と中村氏について語り合った。友人は嘆きつつ、中村氏の偉大さを偲ぶ。「哲さんが医療支援から井戸掘り、そして灌漑・水利事業へと支援スタイルを大きく切り換えた時のことだ。私が朝倉の三連水車について研究することを助言した。すると彼は現地に飛んで3年がかりで勉強を積んだ。そして、アフガニスタンにその技術を生かした灌漑・水利事業を推進した。たいした奴だ。誠の男であり、最も尊敬できる存在だった。本当に悔しくて涙が出るよ」と語る。
中村氏は2000年から飲料水、灌漑用井戸事業を本格化させた。驚いたのは中村氏本人がロープを伝い、20mの深さの井戸の底に降りていく映像を見た時である。本人が工事現場を采配していたのだ。こんなことはできない。続いて農村復興・水利事業を本格化させた。この事業は1万6,000㏊の田畑などの緑化地帯を生み出すという成果を上げた。現地の人たちが安心して農業に打ち込める環境を創出したことになる。
この11年、死を覚悟してきた中村氏はアフガニスタンの政争にはまったく関知せず、関心ももたなかった。ただ「現地の人たちが生まれた故郷に定住でき、難民にならず暮らしていけるために灌漑用水路を延ばして緑化地帯を1㏊でも拡大しよう」という一心で傾倒してきたのだ。
「地元住民たちが安心して暮らせるこのようなプロジェクトに誰も反対する者はいない」という見解は平和ボケの日本人が考えること。アフガンには中村氏の献身的な活動を目障りだと考える勢力がいたのである。
前述した2008年のテロリストによる伊藤氏の殺害がその一例である。当時テレビで放映された苦渋の選択をした中村氏の顔が強烈に記憶に残っている。中村氏は「現地の日本人を全員、引き揚げさせる。私だけが残り、必ずや事業を貫徹してみせる」とコメントしていた。
それから11年間、常に暗殺のリスクを背負いつつ、それをまったく意に介さずに農村復興・水利事業の拡大に専念してきた。まさしく「世界一の社会奉仕家」と評価していいだろう。故人の死を悼み、明日の葬儀には多くの方々が参列すると思われる。
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