2024年12月26日( 木 )

「コロナ恐慌革命」以降どうなるのか(7)~軍・官僚の無責任ぶり変わらず、「残滓国民」の無関心・傍観主義(前)

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 「コロナ襲来」があっても決して“飲み込まれない”強い習性が残っている。それは昔の軍人、現在では高級官僚たちの無責任ぶりである。「コロナの襲来」に遭っても、この習性は決して消滅しないことは間違いない。それを許してきたのが、国民の無関心・傍観主義である。ところがここにきて国民の意識に変化が生じてきている。
 沖縄県にある米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移転工事が、2022年度の予定だったのが、30年代半ばになると朝日新聞が報じていた。この結末は分かっているので結論を下す。どういう結果になろうとも、「コロナ襲来」があっても役人たちは責任をとらないということだ。ただし現在、沖縄県民は強く反対している。

軍人たちの無責任さを振り返る

 1939年5~9月にソ連・モンゴル人民共和国と大日本帝国陸軍・満州軍が激突した「ノモンハン事件」は日本軍の完敗に終わった。敗因は情報収集不足。この敗北理由は1945年8月15日の敗戦日まで尾を引いた。そして、日本は敗北の責任者の処理を実行せず、「かばい合い」で解決済みとしてしまう。青年将校・辻正信の傍若無人振りも黙殺する始末だった。

 1941年12月8日未明、第二次世界大戦における太平洋地区での戦闘が開始された。ハワイへの「真珠湾攻撃」である。おそらく日本国民の大半は驚愕し、感激で涙を流したことだろう。「あの生意気なアメリカに一大打撃を与えた」と全国で勝利の「提灯祝い」がなされたとか。本来、反対の立場を貫くはずの新聞記者の多くも、「うれしくて涙が止まらなかった」そうだ。

 1942年6月のミッドウェー海戦において日本海軍は敗れ、以降敗北への道を辿っていく。その「敗北戦争」において最も無責任な司令官は牟田口廉也である。

 インパール作戦の戦死者は6万人を超えていると記録されている。戦死者が2万6,000人で戦病・餓死者が4万人に達するという兵站無視の負け戦の典型だった。激戦時期にこの牟田口は現地の娼婦を抱いていたというエピソードもあるそうだ。本人は敗戦の責任を追及されず、「ぬくぬく」と1966年、77歳まで生きていた。沖縄戦の司令官で、自決した牛島満とは好対照である。

戦艦大和、約2時間の爆撃で「沈没」

 日本軍司令部は巨艦方式を採用した。時代は航空機主体の戦略に移っていたにもかかわらず、この事実を「無視」したのである。第一次:戦艦大和、第二次:戦艦武蔵という巨艦の建造費は、それぞれ1億4,000万円、6,490万円だった。大和の建造費を現在の物価に当てはめると3兆円といわれる。唯一ほめられるのは予算の厳粛化。武蔵の当初予算は5,265万円、最終的には6,490万円に増えたが、辺野古埋め立ての予算と比較するとまだ「節度」がある。

 「後生大事」にこの2艘の戦艦は使われてきた。しかし、武蔵は1944年10月のレイテ沖海戦で最大約70機の戦闘機から攻撃を浴びて沈没。最後まで温存されていた大和は沖縄戦への片道切符を命ぜられたが、1945年4月、鹿児島県坊津から200kmの東シナ海でアメリカの戦闘機から連続襲来を受けて、わずか2時間の戦闘で「海の藻くず」となった。「航空機優位」という戦略を無視した結果なのだが、誰一人として責任を取った者はいなかったのである。

辺野古への移設計画の果ては無責任プラス滑稽な結末

 何も昔の「戦争談義」をするのが目的ではない。現在進行中の辺野古埋立工事の結果が明白になっているので指摘しているのだ。「コロナの襲来」があっても役人の無責任ぶりが強固に残っていることについて赤裸々にする責務を痛感しているのだ。

 辺野古湾の北側にゴルフ場がある。ここから埋立工事の現場を2回視察した。「埋立予定の北側は、すごくコバルトブルーの色をしているな。急激に深くなっているのではないか!」と難工事であることを直感したのだ。専門家であれば、現地の測量をして当初予算をはるかにオーバーすることを認識しているのは周知のことである。

 当初予算(13年当時)の2,310億円から埋立工事関連の経費が7,225億円と約3倍に膨らんだ。施設工事まで含めた総工費は約9,300億円となり、事業完了は12年までの予定だったのが、大幅に遅れる。普天間返還が30年代半ば以降にずれ込むそうである(4月22日付朝日新聞)。おそらく実質執行される予算は1兆2,000億円ぐらいまで膨張するだろう。

 前記したように「軍国政権」の時でさえ、野放しの予算オーバーを許さない厳しい自己規制を行っていたのだが、平時において、この徹底した予算実行をする習慣が欠落してしまっている。

 そして、滑稽な出来事が待ち構えている。30年代半ばとなれば、アメリカの軍事戦略が根本から変わっているはずだ。中国のミサイルなど、兵器の能力アップで、アメリカ側は後退戦略の布石を打っている。だから完成した暁(30年代半ば)には辺野古基地には執着が薄れているはずだ。

 「アメリカ様!ようやく辺野古ができあがりました。ご笑納ください」と日本政府が寄贈の申し出をする。しかし、アメリカからは「ご苦労さん!!しかし、もういらないよ」という、つれない返事しかないはず。おそらく普天間基地は種子島西方にある馬毛島に移転しているだろう。

 沖縄県民は「無駄づかい辺野古埋立反対」運動を強め、我々も支援することが緊要の課題であろう。

(つづく)

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