2024年11月23日( 土 )

【追悼】ハウステンボス創業者 神近義邦氏逝去

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オランダなどの視察を通して新たなまちを着想

 長崎オランダ村・ハウステンボス創業者の神近義邦氏が5日、がんのため佐世保市の医院で死去した。享年78歳。神近氏は1942年生まれで、出身地の西彼農業高校を卒業後、62年、西彼町(現・西海市)役場に就職し、農業指導などを担当する。
 神近氏のこの経歴からもわかるように、地主・資産家の家庭に生まれたわけでもなく、ましてオランダやテーマパークとは縁もゆかりもなかった。当時は神近氏が後にハウステンボスのような壮大な施設を企画し、創業するとは誰も思ってもいなかっただろう。

 神近氏は80年前後から、故郷でテーマパークの企画・造営・運営に取り組むようになる。80年に果樹園の敷地を利用した動植物公園・長崎バイオパークを開園、83年にその近くに長崎オランダ村(いずれも西彼町)をオープンさせた。コンセプトは「長崎県にゆかりの深いオランダの街並みを、路面に敷かれたレンガ1つまで忠実にそっくりそのまま大村湾の入江に再現する」というもの。観光産業が伸びていた時期であったことも後押しし、長崎観光の新しい目玉と目されるまでになった。

 長崎県商工会連合会会長・宅島壽雄氏(大石建設(株)社長、宅島建設(株)元会長)は神近氏と45年にわたって親交があり、長崎オランダ村、ハウステンボスにも出資し、取締役として一貫して関わってきた。その宅島氏に神近氏との思い出について話を聞いた。

 宅島氏は神近氏から最初に長崎オランダ村の構想について聞かされたとき、まず「このような壮大なことが、本当に実現できるのか」と驚いたという。「自然との共生」をコンセプトとして、「コンクリートではなく石積みのまちをつくる」(宅島氏)というもので、細部にまでこだわりがあった。当時の日本には同様のコンセプトを掲げたテーマパークはほかになく、神近氏に尋ねたところ、これらはオランダなどの視察を通して着想したものであったという。

先輩経営者の助力を得る

 長崎県は、長崎オランダ村側に新たな駐車場として近隣の工業団地(佐世保市)を用地として打診したところ、神近氏は駐車場としてではなく、オランダ村のコンセプトを膨らませた新たな施設をつくることを構想する。あとのハウステンボスだ。神近氏は(株)日本興業銀行(当時)の融資、オランダの指導を受け、92年にハウステンボスを開業した。ハウステンボスは九州内外から観光客を集め、開業から2年半余りで入場者数が1,000万人に達するなど、九州を代表する観光地となった。

 ハウステンボスはエコロジーとエコノミーの両立を掲げ、運河を張りめぐらせたまちづくりを行っている。神近氏がこのような壮大な挑戦を実現まで漕ぎつけた要因について、宅島氏は「神近氏の考えは非常に具体的であり、かつ理詰めであった。そして自治体、銀行、企業と1つずつ話し合い、支援を得られるように説得していった」と述べる。
 神近氏は壮大な夢を構想し、語るというアイデアマン・チャレンジャーとしての側面をもつのみならず、かつそれを具体的な言葉と論理に落とし込むセールスマンでもあった。

 ハウステンボスは長崎オランダ村と比べて非常に大規模であり、その実現に向けて、より大きなパートナーと資本を必要とした。日本設計が図面を担当し、日本国土開発、三菱重工など多くの大企業がハウステンボスに参画した。宅島氏によると、神近氏にそれらの企業を紹介したのは、松田皜一・長崎自動車(株)社長(後に長崎商工会議所会頭)や中山素平・興銀顧問(長崎県出身)であり、神近氏は彼らの信頼を得ていた。彼らは神近氏より一回りも二回りも年上の先輩経営者だ。神近氏の人柄と事業計画が、彼らに面白いと思わせ、かつ納得させられるだけのものであったということであろう。

 しかし運悪くバブル崩壊後の景気低迷の影響を受け、また開業時の巨額の投資により多額の負債を抱えていたことから設備更新も思うようにできず、90年代半ばから入場者は次第に減少。2000年に神近氏は興銀に債権放棄を要請する一方、自身は経営者として責任を取り社長を辞任、ハウステンボスの経営から身を引いた。

晩年 再度、長崎オランダ村関連の事業に関わる

 ハウステンボスの経営から離れた後は、ハウステンボスが見える場所に居住していたという神近氏。ハウステンボスが他社によって経営再建されていくのを眺めながら、いろいろな思いを抱いたであろうが、すべて胸のうちにしまい込んでいた。「経営に失敗したという立場上、口出しせずにいた」(宅島氏)。

 神近氏は晩年、環境事業会社の経営に携わっていたほか、地域おこしの助言を行っていたという。地域の再興に役立てるという自負があったのであろう。
 すでに70歳を過ぎていた16年に、自身創業した長崎オランダ村(01年に閉園)跡地に整備された交流施設「ポートホールン長崎」(17年に長崎オランダ村に名称変更)の運営会社会長に就任した。半年ほどで退任することになるが、ハウステンボスの原点となった長崎オランダ村関連の事業に再度関わることにより、言葉にできない思いを紛らわそうとしたのであろうか。

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