2024年12月23日( 月 )

内藤工務店の内藤建三社長を偲ぶ~企業価値40億円を積み上げた経営者(1)誰もが驚愕

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血液の癌である白血病が命取りに

(株)内藤工務店 内藤 建三 社長

 Net-I・B Newsの10月6日付の「【訃報】(株)内藤工務店の内藤建三社長が死去」に、掲載した通り、内藤建三社長が10月1日に逝去した。75歳だった。葬儀は3日、しめやかに執り行われた。故人・建三氏は1978年3月に初代・内藤正治社長の後を受け継ぎ、陣頭指揮を執ってきた。32歳から75歳まで最前線を走ってきたのである。建三氏の経営の特徴はトップセールス力であろう(詳細については後述する)。

 建三氏はその努力の結果、地元ゼネコン業界の中堅として内藤工務店の位置を確立させた。建三氏は一見すると、頑丈な体格を有する印象だが、近年は血液の癌である白血病に侵され、ハードな治療を余儀なくされていたという。今春からは、九州大学病院でたびたび入院を繰り返していた。寿命が長い現代における75歳の逝去は「短い人生だ」と惜しまれる。本人もやり残していたことがまだたくさんあったはずである。

同世代の昇天に動揺する

 東洋建設工業(株)(本社・北九州市)足谷常務は、「内藤社長は田川市出身、私は山口県出身で同年輩だ。大学は別であったが、福岡で建設業界にデビューしたのは1968年と同じだったと思う。内藤社長は内藤家の養子に入ったため、たしか32歳で社長に就いた。当時、私は課長職であったと記憶している。『社長業は大変であろう』と尋ねたが、内藤社長は笑っていた。一度も弱音を吐かない気丈な人だった」と感慨にふける。

 足谷氏は続けて「昭和の終わり頃に、業界の重鎮の葬儀場で『俺たちの時代が近づいてきたな!!頑張ろう』とお互いに励まし合ってきた」と振り返る。足谷氏は、2000年頃までは、業界の先輩が亡くなられた暁には「俺たちの時代が到来した」と肩を叩きあってきたというが、「我が世の春がいつ訪れたかということもわからないまま、淘汰される時期を迎えて非常にショックである」と言った。

 筆者は故人・建三氏と比べると2歳若いが、建三氏の存在は昭和の終わりころから意識していた。建三氏がセールス力を発揮し活躍していることをもっとも目撃したのは、1990年当時であっただろう。
 福岡市長2期、衆議院議員1期、福岡市議を歴任と一世を風靡した政治家・山崎広太郎氏を支える集まりとして「8日会」があった。筆者のサラリーマン時代であったが、その会に定期的に参加していた。

 建三氏は、電気屋のオヤジや建設関係者と一緒に参加していた。そこで親密感を抱いたのであるが、初対面では「典型的なトップ営業マン」という印象であった。次号で連載するが、建三氏は凄まじいパワーを発揮して内藤工務店の基盤を築いた。筆者も同世代の逝去に対してショックを受けたと同時に、「内藤さんを超えてやろう」という意気込みのある若い勢力が皆無であることが寂しい。若き日の建三氏と足谷氏が先輩らの葬儀場で「次は俺たちが頑張る番だ」と誓い合った光景を懐かしく感じる。

(つづく)

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